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四条通 平安京の四条大路   京都市左京区
四条通
四条通 四条通・南座
四条通・出雲の阿国 四条通・南座
 四条通は、平安京の四条大路にあたり、東は八坂神社から西は松尾大社までの京都市の主要な東西路の一つである。四条河原町の交差点辺りが京都最大の繁華街になっている。
出雲の阿国
 慶長8年(1603)、出雲の阿国(おくに)はこの四条河原で先鋭的な伊達男風の扮装で「かぶきをどり」を披露、関ヶ原合戦後のすさんだ世に都人を驚かせ絶大な喝采を浴びた。
 歌舞伎の元祖といわれている阿国の出生は不詳だが、出雲大社の巫女で一座を率いて勧進のため入洛、北野天満宮の定舞台で名声を得て各地を巡業しその人気が広まった。
 江戸時代に入り、風紀を乱すと女歌舞伎禁止令が出て、男が女形を演じるようになり今日の歌舞伎に発展した。
 阿国は晩年出雲に帰り、尼僧となって生涯を終えたと伝えられ、その墓は島根県大社町と京都の大徳寺高桐院にも存在するが、伝説の域を出ない。
四条大橋 四条通・鴨川
四条通・鴨川 四条通・鴨川
 鴨川には川床料理の店が並ぶ。
四条大橋
 四条大橋は、永治2年(1142)に初めて架設されたと伝えられており、在昔、祇園四条橋と号されていた。その後たびたび鴨川の出水のため破損、流失し、幾度となく改造、架橋を繰り返している。安政4年(1857)の鴨川浚渫とあわせ、祇園氏子の寄付を集め木造石柱の大橋を架橋したが明治6年(1873)8月に破損した。このとき祇園新地などから、京都府知事長谷信篤に新橋架設が請願され、明治7年(1874)4月下京第十五区(弥栄学区)の区費をもって、伏水鉄具製工場で製作された鉄造新橋が架けられた。4月1日の渡初式には、祇園新地の芸妓も多数参加し、華をそえた。
 この鉄橋、延長54間(約98m)、幅員4間(約7m)で、その額は当時の価格で16830円にのぼった。
 また、当時まだどこにも見られなかった鉄の橋であったため、くろがね橋とも呼ばれた。
 明治44年(1911)京都市営電気鉄道が四条橋に布設されることになり、この橋は電車併用橋の鉄筋コンクリートアーチ橋として生まれ変わることとなった。
四条通・仲源寺(目疾地蔵) 四条通・仲源寺(目疾地蔵)
仲源寺(目疾地蔵)
 浄土宗に属する寺院で、一般に「目疾地蔵」(めやみじぞう)の名で人々に親しまれている。平安時代の治安2年(1022)、仏師定朝が四条橋の東北に地蔵菩薩を祀ったことに由来する。
 寺と地蔵菩薩の名の由来は、安貞2年(1228)の鴨川氾濫時に、勢多判官中原為兼が、防鴨河使になった際、この地蔵菩薩が溺れた人を救う姿を見、それ以降地蔵菩薩を「雨止地蔵」(あめやみ)と称し、「中原」の傍らに人と水を添えて寺名としたことによる。
 その後、信仰深い老夫婦の眼病を自らの右目に移し、苦しみを救ったという逸話から、いつしか「目疾地蔵」になり、現在も眼病治療に霊験があるとして広く信仰を集めている。
 本堂の地蔵尊像の傍らには室町時代の作といわれる「山越阿弥陀像」を祀る。また、観音堂には平安後期の春日仏師の作とされる木造の千手観音坐像(重要文化財)が安置されている。
四条通 四条通
四条通 四条通
 四条河原町、四条烏丸辺りの昼と夜。
四条通 四条通
八坂神社御旅所
 祇園祭の山鉾巡行の後に行われる神幸祭で神輿がこの御旅所に到着し、還幸祭までこの地に神輿が滞在する。御旅所とは、神輿渡御のときに本宮を出た神輿が休憩または宿泊する場所をいう。
冠者殿社 冠者殿社
冠者殿社
 冠者殿社は八坂神社の境外末社。官社殿社と表記されることもある。祭神は八坂神社と同じだが、ここは荒魂(あらみたま)を祭る。荒魂とは和魂(にぎみたま)と対をなすもので、神霊のおだやかなはたらきを和魂、猛々しいはたらきを荒魂といい、全国の神社の本社には和魂を、荒魂は別に社殿を設け祭るという例が多い。
 もとは、烏丸高辻にあった八坂神社大政所御旅所に鎮座していたが、天正19年に豊臣秀吉の命により、御旅所が現在地に移転した時、樋口(万寿寺通)高倉の地に移され(現在の官社殿町)、さらに慶長のはじめに現在地に移された。明治45年(1912)、四条通拡幅に伴い旧社地より南方に後退している。
 毎年十月二十日の祭りを俗に「誓文払い」という。
 昔の商人は神様に商売ができることへの感謝と、利益を得ることに対する償いの意識をもっていた。この感謝と償いの意識により年一回の大安売りをして、お客様に利益を還元する商道徳がしっかり守られていた。この本来の誓文払いの精神を継ぎ、商人の方々は商売繁盛を、一般の方々は神様の清き心を戴き家内安全で過ごせるよう願って十月二十日に大勢参拝される。
円山応挙宅址 円山応挙宅址
円山応挙宅址
 円山応挙は、享保18年(1733)丹波国桑田郡穴木村(現亀岡市)の農家に生まれたが、幼少より画を好み、17歳のとき京都に出て狩野派の画家石田幽汀(ゆうてい)の門に入り画法を学んだ。写実主義に傾倒し、三井寺円満院門主の知遇を得、幾多の名作を世にあらわした。
 この地に居をかまえたのは、若い頃、近くの四条道場金蓮寺の境内に借家住まいをしていた関係からでもあろうか。その画風は当時の京都画壇を風靡し、門人千名といわれ、呉春の四条派と京都画壇を二分する流派(円山派)をなした。
 寛政5年(1793)応挙は病にかかり、間もなく回復したが、その後は歩行の自由を欠き、視力も衰えた。それにも拘わらず毎年伏見の梅渓(現伏見区桃山)に梅見に行くのを楽しみとしていた。亀山侯依頼の名作(保津川図)を描いて間もなく同7年(1795)7月17日、63歳で没した。墓は太秦の悟真寺にある。 
佐賀鍋島藩屋敷跡 佐賀鍋島藩屋敷跡
 佐賀鍋島藩屋敷跡
四条通・北緯35°物語 四条通・北緯35°物語
北緯35°物語
 四条通(正確には南へ61m)に北緯35°線が通っている。また、台風シーズンにはラジオ・テレビの天気予報は、この経緯度をさかんに報道している。地球の上で、経緯度ほど正確に一つの地点を決定するものはない。
 北緯35°は古くから東洋の文化線と言われ、東京、名古屋、京都、大阪、遠くは古代中国の徐州、開封、洛陽、西安と通っている。
 この地点から北を向き、そして35°上を向ければそこに北極星がある。 
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