<専称寺と駒姫>
出羽山形の城主最上義光に二女駒姫は、美人の誉れ高く、文禄4年(1595)15歳の若さをもって関白秀次の聚楽第に召されたが、この年7月太閤の怒りに触れた秀次は、高野山に切腹、子女妻妾三十余名は8月2日京都三条河原に斬に処せられた。義光は深く娘の死を悼み、天童高櫛から浄土真宗大谷派の専称寺を城下町山形に移し、黒印地(のち朱印地)十四石と林地八町四方を給して駒姫の霊を慰めた。京都三条の瑞泉寺には駒姫(於伊満(おいま)の前)の墓があり、その辞世の歌
罪をきる弥陀(みだ)の剣(つるぎ)にかかる身の
なにか五つのさわりあるべき
は国立京都博物館に遺されてある。余の姫君遠の嘆き悲しむなかに、少しの臆するけしきもなかったという。
最上義光は関ヶ原の役、徳川方として、上杉勢2万4千を山形西郊に迎え撃ち、その功によって57万石の大藩となった。最上藩は、お家争いにより3代後、領地接収、近江大森に転封されるが、盛時の面影は今もなお日本の代表的な平城、霞ケ城址と、寺院15を数えるこの寺町界隈に偲ぶことができる。
専称寺本堂は、元禄16年(1703)の改築に成り、雨落十八間四面、江戸中期木造建造物としては東北第一、本堂四隅には力士の像があり、左甚五郎作と伝う。(説明文より) |