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春日局の墓 麟祥院   東京都文京区
春日局の墓
春日局の墓 春日局の墓
 春日局(天正7年〜寛永20年・1579〜1643)は、3代将軍徳川家光の乳母で名はお福。稲葉正成との間に3児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長9年(1604)家光が生まれるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。そして、それが契機となり大奥の制度が確立された。この麟祥院(りんしょういん)は、寛永元年(1624)春日局隠棲所(いんせいじょ)として創建され、「報恩山 天澤寺」と称した。局の死後、寺はそのまま菩提寺として法名にちなみ「天澤山 麟祥院」となる。墓地奥にある局の墓は無縫塔(むほうとう)で四方に穴が貫通した特異な形をしている。

 幼名は福。父は明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三、母は刑部少輔越智道明の女で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけたが、慶長9年(1604)3代将軍家光の乳母として召し出され、三千石を賜った。
 家光が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽くしたことは有名です。
 寛永5年家光25歳の折、疱瘡(ほうそう)にかかられ、諸医の手当にも験(しるし)がなかった時、局は斎戒(さいかい)沐浴(もくよく)して東照大権現の神前に詣で「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷った。その忠誠心に感応してか、日ならずして家康の病気が恢復した。そのため局は身の終わる迄針灸薬餌を一切用いなかったと言うことです。
 寛永6年京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇より天盃を頂戴した。同9年再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられた。寛永20年(1643)9月14日65歳で卒し、当院墓地に葬られた。(説明板より)

 無縫塔の墓石と台石の四方に丸い穴があいているが、これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せる墓を作ってほしい」という春日局の遺言によると伝わっている。 

関東
江戸以前 間宮林蔵 青木昆陽 赤穂浪士 吉田松陰 雷電為右衛門
春日局 緒方洪庵 梅田雲浜 沖田総司 松平定信
吉良家 葛飾北斎 榎本武揚 於大 高橋至時
千姫 八百屋於七 孝子 斎藤鶴磯 遠山金四郎
紀伊国屋文左衛門 寂光土 谷 文晁 彰義隊 徳川慶喜
松本幸四郎 薩摩浄雲 身禄行者 田沼意次 司馬江漢
千葉周作 二宮尊徳 曾我兄弟 清河八郎 明珍本家
平 将門 伊能忠敬 幡随院長兵衛 蜀山人 山岡鉄舟
伊豆長八 島田虎之助
明治以後 山路愛山 高村光太郎 岡村昭彦 三条実美 杉浦重剛
大隈重信 三遊亭円朝 田中芳男 林芙美子 芥川龍之介
樋口一葉 石川啄木 岡倉天心 佐藤春夫 山県有朋
外国人墓地
中部
北条時政 源 範頼 源 頼家 木地師墓石群 信玄塚 清水次郎長
近畿
那須与一宗高 紀州徳川家 織田信長 坂本竜馬 天誅組 向井去来
与謝蕪村 真下飛泉 木村重成 豊臣秀次 明智光秀new
中国
毛利家 森鴎外 雪舟 中村憲吉

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