石川啄木(1885〜1912)は本名を一といい、岩手県玉山村日戸常光寺に生まれた。はじめ明星派の浪漫主義詩人として出発、小学校代用教員となり、北海道に渡って地方新聞の記者になったが、作家を志望して上京、朝日新聞に勤務しながら創作活動を続けた。大逆事件に遭遇し幸徳秋水らの思想を知り、社会主義の立場にたつようになった。『時代閉塞の現状』で自然主義を批判、詩集『呼子と口笛』、歌集『一握の砂』などの作品を残し、貧窮のなかで病歿(肺結核)した。(母は前月に死去している)
明治44年(1911年)8月7日、本郷弓町の喜乃床の2階からこの地の借家に移り、翌年4月13日逝去まで居住した。間取りは玄関2畳と4.5畳と8畳(又は6畳)と台所であったといい、移転時には既に病床にあって、文学的活動はなかったという。
都内の啄木の遺跡としては『スバル』の編集所でもあった文京区本郷森川町の蓋平舘、本郷弓町の喜乃床など下宿した家もあるが、この地は啄木終焉の地として指定した。 |