東京の多くの歴史的建造物が、震災、空襲、高度成長期の再開発などにより失われた。旧新橋停車場の駅舎も、関東大震災の時に焼失した。新橋ステーション、汐留貨物駅として鉄道の拠点であり続けたこの地区は、再開発により汐留シオサイトに生まれ変わったが、鉄道発祥の史跡を目に見える形で後世に伝えたいという願いを込めて、もとの場所に駅舎を再建することになった。
開業直前に撮影された鮮明な駅舎の写真が横浜開港資料館などに保存されている。この写真と残された平面図をもとに菊池重郎博士らが作成した復元図が昭和55年(1980)に発表され、最新の新橋停車場再建構想として知られている。今回も同じ写真を使い、発掘調査で新たに確認された駅舎基礎とプラットホーム遺構の正確な位置と寸法にもとづいて三次元解析を行った結果、往時と同じ外観の建物を同じ場所に再現することができた。外壁の材料や色を正確に示す資料は残されていないので、当時の文献や絵などを参考にして現在入手可能なものを比較検討し、最適の石材を選んだ。信頼できる資料が残されていない建物内部は、推測によって再現することを避け、新たに設計した。
この建物は国宝や重要文化財の建物復元と異なり、建築基準法などの適用除外措置を受けていない。往時の外観を再現しながら、現行の法令に従い、現代の建物に求められる機能を備えたものとして造られている。このために建物外部に付加された車椅子用スロープ、給排水設備、熱源取り入れ口などは、再現部分と異なる材料とデザインを用いて、新しく創作したことが分かるようにしてある。往時の姿について資料が残されていない正面玄関中央部についても同様です。
<新橋停車場駅舎>
新橋停車場駅舎は、アメリカ人R・P・ブリジェンスの設計による木骨石張りの構造で、明治4年(1871)5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、威容を誇っていた。
大正3年(1914)、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森(からすもり)駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えた。
文明開化の象徴として親しまれていた旧駅舎は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、昭和9年(1934)から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の初施設も解体された。
昭和61年(1986)、汐留駅はその使命を終えて廃止され、敷地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財の発掘調査が平成3年(1991)から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘された。平成8年(1996)12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡『旧新橋停車場』として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の往時を偲びために、駅舎を再建することになった。
<プラットフォームの構造>
プラットフォームは「盛土式石積」という構造で作られている。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷き詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められた。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われた。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていた。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいる。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく、2・3段目では長手面が並ぶ箇所がある。
<プラットフォームの規模>
プラットフォームの全長は151.5m、幅は9.1mあった。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25mです。遺蹟指定の範囲に残されているプラットフォームの遺構は35mです。 |