| 野口英世・生家 |
忍耐 福島県耶麻郡猪苗代町
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<野口英世記念館> 猪苗代町三城潟
野口英世は、明治9年(1876)11月9日、この家に生まれ、幼名を清作と呼び猪苗代小学校卒業後苦学力行。明治33年(1900)アメリカに渡り主としてロックフェラー医学研究所で研究に従事。明治44年(1911)医学博士、大正3年(1914)理学博士の学位を受け、発表した論文は実に186編の多きに達した。昭和3年(1928)5月21日アフリカのガーナ・アクラで黄熱病の研究中不幸にこれに感染し51歳で殉職した。博士の眠るニューヨーク郊外ウッドローンの墓碑には次のように記されている。
Through devotion to science he lived and died for humanity
博士は科学への献身により、人類のために生き 人類のために死せり。
<野口英世が生まれた家>
この家は野口家二代目清太郎の代の文政6年(1823)に建てられたものです。英世はここで少年時代を過ごしたが、その後家屋の傷みがひどく大正3年(1914)に隣の家を購入して家族たちは移り住み、この家は小屋代わりに使用していた。野口英世記念会が設立されると、生家を保存・公開することになり現在に至っている。
<上京するとき柱に刻んだ決意文>
明治29年(1896)9月初旬、19歳で上京するとき、床柱に全身の力をこめて、小刀で刻みつけた。清作青年の決心を物語る。
「志を得ざれば再びこの地を踏まず」
奥の左にその柱がある。
<英世自筆の書>
忍耐の書は母校・翁島小学校に、英文と仏文の書は当時の猪苗代町長に贈られたものです。
忍耐(patience)
Honesty is best policy(正直は最良の方法である)
La patience est ame're,mais son fruit est doux.(忍耐は苦い、しかしその実は甘い)
<野口英世自筆の書「忍耐」>
大正4年(1915)に帰国した英世は、母校・翁島小学校で生徒たちに講演を行い、その時に「忍耐」の書を寄贈した。この「忍耐」の書は、昭和4年(1929)、生家の保存とともに、石碑に刻んで、野口英世記念館内に建立した。 |
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清作が1歳6ヶ月となった明治11年(1878)の4月末、母シカが洗い物をしている間に這い出してこの囲炉裏(いろり)に落ちて大火傷をした。(左画像)
右画像は清作が生まれた部屋。納戸になっている。 |
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<蚕棚>
母シカは自分で養蚕を行い、糸紬や機織りして貴重な現金収入を得た。この地方での養蚕は、一般的には、春繭(5月末〜6月末)と秋繭(7月末〜8月末)の2回の収穫だった。卵からふ化して繭になるまでには、30日くらいかかりそれから10日くらいで出荷する。 |
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<母シカが植えた桑の木>
シカは生計を支えるためにあらゆる仕事をした。その中でも養蚕は大変に良い収入になるものだった。最盛期になると家の中が蚕棚で一杯になるほどだった。
<母からの手紙>
明治45年(1912)、母シカはアメリカにいる英世に帰国を催促するため、幼い頃覚えた字を思い出しながら自筆の手紙を書いた。この手紙を手にした英世は、親不孝をしている思いがして涙が止まらなかった。研究やヨーロッパでの講演などを控えている英世は、研究を中断して日本に帰ることは許されなかった。英世は母の思いを叶えるため、力を尽くしたいと思った。
<オメエ>
「オメエ」は「おまえ」の方言です。その意味は、我が前にあるもの、正面に相対するもの、というのが語源です。土間に対して一段高くなったところ、座敷への登り口、お客様を接待するところの表の間を「オメエ」と言っている。 |
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