写真紀行・旅おりおり トップページへ 写真紀行・旅おりおり : 旅先で撮影した景色、建築、史跡、祭、風物等の写真と動画
 <史跡を巡る写真紀行


 印象深い景色
坂道灯台横丁・小路街角通り温泉
 史 跡
街道史跡城・城跡人物奥の細道墓地・終焉地Play Back
 建築・構造物
伝統的建築先端建築神社漁港垣根
 自 然
池・沼海岸
 産業・交通
伝統・地場産業バスターミナル国内線自動車・バイク道風景
 四季の景色
棚田春景色夏景色秋景色冬景色
 歌の舞台・祭・他
歌の舞台祭・イベント夜景テ−マパ−ク釣り
 管理人
管理人備忘録リンク集

川中島古戦場 川中島古戦場八幡原   長野県長野市
川中島古戦場
川中島古戦場 川中島古戦場・執念の石
川中島古戦場八幡原
 川中島合戦は今から400年前、天文22年より永禄7年に至る12年の永きに亘って行われたが、後世広く伝えられている川中島合戦は永禄4年の戦いを指している。
 この戦は越後の雄将上杉謙信、甲斐の智将武田信玄がここ川中島に雌雄を決せんと武田勢は八幡原に、上杉勢は妻女山に陣をとり、両軍併せて3万3千余、9月10日未明の霧深い中で信玄の「鶴翼」の配備と謙信の「車懸」の攻撃で双方死斗を盡し、ここ八幡原は大修羅場と化した。
 その中にあって、謙信は只一騎愛刀「小豆長光」を振りかざし武田の本陣に切り込み不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたという有名な「三太刀、七太刀」も此の処である。時に信玄41才、謙信32才であった。
 この戦で死傷者7千を数え史上最大の激戦で両将の決戦場ここ八幡原に現存する土盛りの跡は、武田本陣桝形陣地で当時の一部を物語っている。
 両将の戦術は幾多の戦術研究の指針とし、現代戦にも多く応用されたと聞く。武田の居城海津城は東南四粁の松城に、またョ山陽の「鞭声粛々夜渡河」で有名な雨宮渡は東側を流れる千曲川の上流約六粁の地点である。
「毘」「龍」の旗
 上杉軍の軍旗で、「毘」は上杉謙信が信仰した毘沙門天を意味し、戦場にこの旗と共にあることは毘沙門天と共にあり、その加護のもとに上杉軍将兵は勇往連進し、水火も辞さない勇気を示したといわれる。「龍」は乱れ龍を意味し、突撃の時はまっ先に押し立てて進んだ「突撃用軍旗」である。
 永禄4年(1561)9月10日の川中島合戦もこの旗で火蓋(ひぶた)が切られたのである。謙信自らの信仰心に発する「毘」の旗と共に、この旗は上杉軍の勇猛果敢さを象徴し戦わずして敵の恐怖心を誘発したといわれる。
執念の石
 武田・上杉両軍3万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の仲間頭の原大隈が、傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信めがけて冗一槍にと突き出した。苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三途をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔し去ったため、信玄は危うく虎口を免れることができた。一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隈は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる。 
川中島古戦場・八幡社 川中島古戦場・首塚
首塚> 
 この碑の下の塚は首塚といわれ、この大合戦後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこのあたり一帯の戦死者(六千余人)の遺体を敵味方の別なくあつめ、手厚く葬った塚である。
 この処置に感激した上杉謙信は、後年塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれ、乱世に咲いた美挙とほめたたえられた。
 ここから東南へ約180mのところにも同じく首塚がある。昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、今残るのは二つだけである。
川中島合戦図
 信玄は信濃制覇のため、謙信はその北上阻止のため、川中島にて5回対陣している。中でも1561年の第4次川中島合戦において、本格的に衝突した。謙信の関東管領就任と北条討伐が信玄配下の信濃豪族の動揺を呼んだこと、それに対応し信玄が越中の一向宗を動かして越後をけん制したことが両者の関係を決定的にした。
 旧暦8月14日、謙信は春日山城を出発し、妻女山に布陣。一方、信玄は退路を断つべく茶臼山に布陣し、謙信動かずと見ると海津城に移動した。約10日の対陣後、9月9日夜、信玄は、別動隊による迂回攻撃と本隊により退路遮断を行う半包囲攻撃「きつつきの戦法」をとる。一方謙信は、海津城に炊煙が上がるのを見て武田軍に動きがあることを察知し、信玄の本陣を突くべく妻女山を降り、千曲川雨宮の渡しを渡る。10日朝、霧。八幡原にて戦端が開かれた。(長野市役所観光課HP)
川中島合戦図
 赤が武田軍、青が上杉軍である。
上杉謙信  四十九年 一睡の夢
    一期の栄華 一盃の酒
北海道
函館 造船所跡地 ペリー提督来航記念碑 宇須岸河野館跡
東北
角館・武家屋敷 山居倉庫 石場家住宅 旧金子家住宅 厩石
三内丸山遺跡@ 三内丸山遺跡A
関東
東京 築地塀 佃島渡船場跡 大洗堰跡new 山吹の里
お化け燈籠 処静院跡の石柱 蕃書調所跡 定火消発祥の地
銅燈籠 旧乃木邸 国学発祥の地 赤門
湯島聖堂 御鷹部屋 新暦調御用所跡 江戸城外堀跡石垣
石町時の鐘 キリシタン屋敷跡 勝・西郷の会見地 神田上水石樋の石
真砂遺蹟
東京(見附) 赤坂見附跡 日比谷見附跡 四谷見附跡
鎌倉 東勝寺跡 日蓮上人辻説法跡 北条時房邸跡
横浜 鉄の橋 横浜天主堂跡 象の鼻波止場 日本の新聞誕生の地
弘道館 ペリー上陸地
甲信越
長野 松代藩文武学校 川中島古戦場 象山地下壕 真田邸
開智学校
東海
関ヶ原合戦 家康最初陣地 関ヶ原決戦地 石田三成陣跡 島左近陣跡
名古屋 信長塀 蕉風発祥の地
浜松 米津台場跡 伊場遺跡 犀ヶ崖古戦場 徳川秀忠誕生井戸
江戸行六義人 中村家住宅 三方ヶ原古戦場
掛川 旅籠 川坂屋 藤文 旅籠 萬屋
伊豆の国 江川邸 願成就院 韮山反射炉 北条政子誕生井戸
下田 ペリー上陸地 吉田松陰寓寄処
馬防柵 桶狭間古戦場 旧見付学校 旧天城トンネル 畳石
高山陣屋 指月殿 崇廣堂 旅館 大橋屋
近畿
京都 寺田屋騒動址 落柿舎 御手洗井 池田屋跡
粟田口 インクライン 水路閣(琵琶湖疎水) 中院山荘跡
時雨亭跡 御土居 長坂口 閑院宮邸跡
阿国歌舞伎発祥地 翠紅館跡 京都御所 西行井戸
西行庵 神泉苑 西寺旧跡 高松殿址
二條陣屋 亀山藩京屋敷跡 応仁の乱勃発地 大極殿跡
高瀬川一之船入 高瀬川七之舟入址 草紙屋・八文字屋 土佐藩邸跡
化粧水 千利休居士遺蹟 不審庵 秦家住宅 野口家住宅
新選組最後の洛中屋敷 久坂玄瑞寓居跡 東三条院址 御陵衛士屯所跡
奈良(平城宮) 朱雀門 大極殿@ 大極殿A 大極殿の屋根
井戸枠 内裏正殿 築地回廊 磚積基壇建物
遺構変遷 宮内省 東院庭園 兵部省
第一次大極殿と朝堂院 第二次大極殿 檜皮葺
明日香 甘樫丘 高松塚古墳 飛鳥水落遺跡 石舞台古墳
大官大寺阯 川原寺跡
大山崎 天正・山崎合戦 山崎宗鑑冷泉庵跡
赤穂 近藤源八宅跡 大石頼母助屋敷門
山田寺阯 井筒屋 大阪城採石場 長屋門附塀 藤原宮跡
旧西川家住宅
中国
津和野 馬場先櫓 藩校養老館 多胡家表門 大岡家老門
萩城下町 松下村塾 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 旧湯川家屋敷
鍵曲 旧萩藩校明倫館 菊屋家住宅 旧久保田家住宅
旧佐伯丹下家屋敷
下関 朝鮮通信使上陸淹留地 七卿史跡 奇兵隊結成の地 長州砲
壇ノ浦古戦場
松江・武家屋敷 鞆七卿落遺跡
四国
池田の桟敷 旧喜多家住宅 旧永井家庄屋屋敷 塩飽勤番所跡 野村家(武家屋敷)
浦戸砲台場跡
九州
長崎 グラバー邸 亀山社中の跡 出島 居留地跡
鹿児島 仙巌園 医学院跡
ザビエル記念碑 島原・武家屋敷 知覧武家屋敷群 元寇防塁

忠臣蔵
東京 赤穂浪士の道 吉良邸跡 浅野内匠頭邸跡 赤穂浪士の墓
泉岳寺 南部坂 吉良家墓所(東京) 間新六供養塔
赤穂 大石邸長屋門 大石神社 花岳寺 こども歌舞伎
大石瀬左衛門 息継ぎ井戸 片岡源五右衛門 赤穂城
吉良 吉良家墓所(西尾)


Google
WWW を検索 写真紀行・旅おりおり を検索

「写真紀行・旅おりおり」の画像を利用したい場合は、「」より連絡してください。

Copyright(c) 2002-2018 写真紀行 All Rights Reserved.