<京七口の一つ長坂口>
寛永年間から明治初年までは道筋を挟んで東側は、東西80間南北70間の広大な薬草園を開いていたご典医であった藤林氏が管理経営しており幕府に納めていた。現在の藤林町がその町名を残している。辛味大根、朝鮮人参、唐辛子、茶、薬草の他太葱、丸大根、鹿ケ谷南瓜など赤土でできた野菜なども作られていたのであった。
通りの西側には道筋に沿って米屋、木屋、鍛冶屋、絹屋など様々な商家が軒を連ねていた。お土居より北は洛外芸術村であった本阿弥家が幕府に返上してから間口の広い屋敷には京や丹波からの商家が移り住む様になり材木問屋、薪炭問屋、米屋、たばこ問屋等々が営まれていた。船の着かない港と云われていた一時期もあった。 |