明治の軍人乃木希典大将の邸宅。よくも悪くも、明治時代を象徴する人物である。邸宅より立派そうに見える厩舎。
乃木将軍は言うまでもなく日清、日露の両役に武功輝き又高風清節徳望高き人格者として一世の崇敬を受けた。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵に叙せられ晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられ専ら華胄子弟の薫育に蓋したが大正元年9月13日明治天皇御大葬の当日64才を一期として殉死し静子夫人も共に自刃した。
将軍の殉死せらるるや遺言して自邸を東京市に寄附せられた。時の東京市長男爵阪谷芳郎は、中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。
将軍は嘉永2年11月11日、麻布日ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ(少年乃木無人所載年譜)安政5年11月、将軍10才の砌り一家と共に長門国長府に移った。幼名を無人とよび慶応2年6月、18才の折文蔵と改名した。明治2年11月、21才の時藩命により佛式練兵教習のため伏見御親兵営に入隊し、その後、京都市河東練兵場御親兵練武掛を命ぜられ、又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台兵の教育に盡したが、明治4年11月、23才の時に陸軍少佐に任ぜられ名を希典と改めた。明治8年、27才の時熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となり、同10年には西南の役に従軍4月22日中佐に任ぜられた。将軍の父希次は、同年10月東京に於て病没した。翌年11年1月26日、熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第1連隊長となり、8月27日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが夫人は時に20才であった。当時将軍は、芝桜川町に住んでいた。(山路愛山著乃木将軍)翌明治12年8月28日、長男勝典が生れ11月に新坂町55番地に初めて邸宅を設けたのである。同13年4月、大佐に進み翌14年12月、次男保典が出生した。
その後ドイツ留学、日清、日露両役に従軍、英国皇帝の戴冠式参列等の事があり、その間、那須別邸に自適されたこともあったが、本邸は依然として此地に在り、明治12年以来34年間に及んだ。本邸は、素朴高潔であった。将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。因みに長男勝典中尉は、明治37年、南山総攻撃に於て戦死し、次男保典中尉は、同年11月30日、歪頭山に於て戦死した。時に長男26才、次男は、24才であった。大将夫妻、及び両息子の墓はともに青山墓地にある。(説明文より引用)
乃木希典 - Wikipedia 近代日本人の肖像 |