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<2月18日>
頼朝の平家追討の命に従い義経は、軍監であった梶原景時に本隊を託し、大将自らわずか150騎ほどの軍勢を引きつれて摂津(大阪府) から暴風雨のなか船を漕ぎ出し、阿波勝浦
(徳島県小松島市)に上陸した。数千ともいわれていた平家軍団を背後から急襲しようというのです。
上陸後、伊予河野氏攻略のため手薄となっていた平家方の城を攻め落とし、屋島へ急ぐ。大坂峠を越え讃岐に入った源氏軍は、丹生辺りから海岸沿いと内陸路の2隊に分岐、義経本隊は内陸路長尾から三木そして屋島へと迫って行った。
<2月19日>
午前8時頃、丹生で別れた支隊と合流。源氏勢は地元の豪族も味方に引き入れ300騎ほどの軍にふくらんでいた。屋島の南、今の古高松のあたり一帯の民家に火を放ちながら平家の総門を占領する。
時を同じくして後藤兵衛父子、那須与一ら30余騎は浅瀬の赤牛崎から屋島に上陸、安徳天皇の行宮へ向かい平家内陣をことごとく焼き払った。屋島の対岸、五剣山の西麓に数百隻にも及ぶ軍船を隠し、海路からの源氏の襲来に備えていた平家は思いもよらぬ背後からの急襲
・火攻めに源氏の大軍が襲来したとばかりにあわてふためき、辛うじて船で沖へと逃げる。沖に出てようやく落ち着きを取り戻した平家。 陸を振り返ればわずか300余りの源氏の奇襲だったとようやく気づいた。
以後、沖の平家船団と浜に駒を進めた源氏騎馬軍団の壮絶な戦いが繰り広げられた。
<2月20日>
昨日に続き、牟礼浜海岸で源平両軍譲らずの戦いが続く。この日の戦いで那須与一の扇の的など数々のエピソードが残された。
戦いの中、平家は伊予河野氏攻略中だった1,000余騎の援軍の到着を待っていた。 教経はこのことを悟られないよう 「七縦七檎の策」 (しちしょうしちきん:攻めては引き、また攻め返して敵を疲れさせる戦法で三国志の名軍師・諸葛亮孔明が南蛮攻略で使った戦法)
をとり、 義経の注意を海上に引きつけた。
<2月21日>
早朝、平家は船で八栗半島の北を廻り志度に上陸し源氏勢を背後から攻める最後の作戦にでた。この奇襲作戦を義経はいち早く察知し、80余騎を引きつれ志度へ急行。
源氏優勢とみた讃岐の豪族や瀬戸内海水軍は旗をひるがえし源氏に加勢。志度寺付近で平家に壊滅的な打撃を与えた。
伊予から田内左衛門(でんない ざえもん)以下1,000余騎の援軍が到着するも櫻間介能遠(さくらのますけよしとう)に平家不利と説き伏せられ解軍。最期の望みの綱も絶たれた平家は屋島に引き返そうとするが、義経の軍監・
梶原景時の大船団が来るという噂にも翻弄され、2月21日夕方、屋島をあとに西海へ落ちて行くことになった。 |
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源平両軍のルート |
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