武田軍は日本最強の騎馬軍団といわれたが、徳川・織田連合軍が有する3000丁の火縄銃の前には無力で敗れ去った。(柵は復元)
<長篠合戦当時の部将の年齢>
| 織田信長 42 |
織田信忠 19 |
織田信雄 18 |
羽柴秀吉 39 |
前田利家 38 |
| 山内一豊 31 |
加藤清正 14 |
丹羽長秀 41 |
佐久間信盛 46 |
徳川家康 34 |
| 徳川信康 17 |
松平忠次 55 |
酒井忠次 51 |
本多忠勝 28 |
武田勝頼 30 |
天正3年(1575)「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちにするために造られたもので、延長2粁(キロメートル)に及んでいた。決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、背後の弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなったのである。(看板資料より) |