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<掛川城の歴史>
掛川城は戦国時代の文明年間(1469〜86)、駿河守護大名今川義忠が遠江支配の拠点として、重臣朝比奈泰X(やすひろ)に築かせたといわれている。
桶狭間の戦(1560)で今川義元が織田信長によって倒されると、永禄11年(1568)義元の子氏真(うじざね)は武田に駿河を追われ、掛川城に立て籠もった。翌年、徳川家康は、掛川城を攻め長期にわたる攻防の末、和睦により開城させた。家康領有後、重臣石川家成が入城し、甲斐からの武田侵攻の防御の拠点となった。
天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東に移すと、家康旧領地には秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入った。一豊は多くの戦乱により傷んだ城の改築や城下の整備を行うと共に、この時初めて天守閣をつくった。
江戸時代には、掛川城は徳川親藩の松平氏や、江戸城を築いた太田道灌の子孫太田氏など11家26代の居城として栄えた。貴族的な外観をもつ天守閣の美しさは「東海の名城」と謳(うた)われた。しかし、嘉永7年(安政元年1854)安政の東海大地震により天守閣など大半が損壊。御殿、太鼓櫓、蕗(ふき)の門などの一部を除き、再建されることなく明治維新を迎え、明治2年(1869)廃城となった。
その後、御殿は様々に使用されながら残ったが、天守台や本丸の跡など一帯は公園とされてきた。掛川市民の熱意と努力が実を結び、天守閣は平成6年(1994)140年ぶりに木造により再建され、再び美しい姿を現した。(木造による再建は非常に珍しい。全国の再建された城は鉄筋コンクリートが目立つ。) |
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<掛川城の天守閣>
掛川城天守閣は、外観3層、内部4階から成る。6間×5間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きなものではないが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せている。1階、2階に比べ4階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せた出現期の天守閣の名残といえる。白漆喰塗り籠めの真白な外容は、京都聚楽第の建物を、黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと見られる。 |
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<掛川城御殿の歴史>
御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能をあわせもった施設です。掛川城御殿は、二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも4カ所しかない貴重な建物です。
書院造りと呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室が連なり、各室は襖(ふすま)によって仕切られている。当初は、本丸にも御殿がつくられたが、老朽化したり災害にあったりして二の丸に移った。
現存する御殿は、嘉永7年(安政元年1854)安政の東海大地震でそれまでの御殿が倒壊したため、時の城主太田資功(すけかつ)によって、安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて再建された。安政2年から明治2年(1869)までの14年間は掛川藩で使われたが、廃城と同時に勤番所と徳川家兵学校に転用され、廃藩置県とともに掛川宿に無償下附(げふ)され聚学校(じゅがっこう)として使われた。その後も、女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され続けた。
その後、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建物として、昭和47年(1972)から昭和50年(1975)まで保存修理が実施され、昭和55年(1980)1月26日、国の重要文化財に指定された。 |
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<掛川城御殿の構造>
掛川城御殿は、7棟よりなる書院造りで、部屋はそれぞれの用途に応じ約20部屋に分かれている。
最も重要な対面儀式が行われる書院棟は、主室の御書院上の間と、謁見者の控える次の間・三の間から成る。藩主の公邸の小書院棟は、藩主の執務室である小書院と、藩主の居間として使われた長囲炉裏の間からなる。東側は藩政をつかさどる諸役所の建物で、目付・奉行などの役職の部屋、警護の詰所、帳簿付けの賄方、書類の倉庫である御文証などがある。小書院の北側には、勝手台所があったが、明治時代に撤去されてしまった。
江戸時代には身分によって入口が異なっており、藩主や城代は車寄せ玄関に駕籠(かご)などを乗り付け、上級武士は玄関東側、足軽は北側の土間から入った。 |