<清水次郎長・生家>
文政3年(1820)〜明治26年(1893)を侠客として又国士として波乱の生涯を(74歳)を終えた人である。母方の叔父にあたる米問屋・山本次郎八の養子となった。次郎長の通称は、次郎八のところの長五郎という意味である。
若い頃は米屋家業に精を出したが、その後は遊侠に身を投じ清水港の親分となった。晩年は山岡鉄舟の知遇を受け国を思う国士というか、政治家というか、実業家というか、数々の仕事をした。
15代将軍徳川慶喜が大政奉還後、明治元年(1868)から30年まで静岡に居住していたが、その間、釣り・投網・写真撮影まどのために頻繁に清水港を訪ねている。次郎長はその護衛役も務めている。その礼の品として拝領したものも残されている。また、慶喜の家臣が記録した「家扶日記」には明治6年(1873)の元日、次郎長が新年のあいさつに来訪したしたと記されている。
生家には次郎長が使った道具や井戸などが当時のまま保存されており、清水の親分という一般的な評伝外の興味深い人生を知ることができる。
<清水一家二十八人衆>
次郎長といえば二十八人衆といわれる。神田伯山が講談で創作した追分の三五郎を除いて全て実在である。二十八人衆というのは仏教でいう千手観音の眷。 |