京都「町家小路」写真紀行   京都「町家小路」を写真と文で紹介

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坊城通 新撰組が歩いた通り   京都市下京区
坊城通・輪違屋
 平安京の坊城小路に当たる通り。すぐ西側には朱雀大路があった。朱雀大路は現在の千本通になる。坊城通といえば何と言っても幕末の新撰組だろう。壬生寺をはじめ新撰組に関連した建物などがある。そして、もう一つは島原に関連した建物である。
梅小路公園 梅小路公園
七条通 坊城通
 梅小路公園から坊城通の散策を始める。梅小路公園にて小休止、七条通を渡って坊城通を一路北上する。
島原大門 島原大門
島原
 豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。正式地名は「西新屋敷」という。
 島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき、優れた傾城を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。
 また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。
 しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋(今の料亭にあたる店)の「角屋」(すみや)、置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」(わちがいや)、それに島原入口の「大門」、これら3箇所がわずかに往時の名残をとどめるものとなっている。
島原大門>。
 開設された当時の島原の四周は掘と塀で囲まれ、門はその東辺北寄りに設けられていた。その後、享保17年(1732)に西辺にも門が設けられた。東辺北寄りの門は、明和3年(1766)道筋と呼ばれていた道の東端である現在地に付け替えられた。
 東辺の門は、享保14年(1729)には、冠木門(かぶきもん)であったと考えられ、その後塀重門、さらに腕木門へと変更された。嘉永7年(1854)8月の大火では、島原の東側は大半が類焼しており、このとき門も焼失したと考えられる。大火後、門は再建されたが、慶応3年(1867)5月には、再び建て替えられた。これが現在の大門である。
 この大門は、本柱上の屋根の他に後方の控柱(ひかえばしら)上にも小屋根をのせた高麗門で、前には「出口の柳」が植えられ、「さらば垣」がめぐらされて今日も当時の趣を伝えており、島原の由緒を伝える地域の文化財として貴重である。昭和61年(1986)に京都市登録有形文化財として登録された。
島原・輪違屋 島原・輪違屋
島原・輪違屋
 輪違屋は、太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688〜1704)の創業と伝えられている。
 現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたといわれるが、その後増改築がなされて、明治4年(1871)には、ほぼ現在の姿になっていた。
 平面構成は複雑だが、大きく分ければ、1階南半分の居室部分と、1階北半分及び2階をしめる客室部分からなっている。客室は全部で十数室あり、なかでも2階の傘の間と紅葉の間が主要な座敷で、その襖や壁の漸新な意匠には目を見張るものがある。
 輪違屋は、建築的には質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。
坊城通・歌舞練場跡 五条通
坊城通・光徳公園 坊城通・光徳公園
歌舞練場跡
 島原歌舞練場は、明治6年(1873)上之町に島原女紅場として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年(1881)頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。その後景気の回復により、太夫道中が再興され、歌舞練場が常にその巡行の拠点としての役割を果たしていた。しかし、当初の歌舞練場は、狭隘にして、かつ貸座敷組合事務所との共用だったため、昭和2年(1927)に中之町の現在地に移転し、本格的な劇場施設として新築された。それ以来、この新歌舞練場は、歌舞会にあたる養柳会が運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として、毎年温習会が開催された。戦後の同22年(1947)以降は島原貸席お茶屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成8年(1996)同組合の解散に伴い、歌舞練場を解体し、歌舞練場120余年の歴史を閉じることとなった。
 現在、敷地は島原老人デイサービスセンターや島原在宅介護支援センターなどの福祉施設になっている。
 五条通の手前に新撰組記念館があったが休店であった。大きな五条通りを抜け光徳公園で一休みする。
坊城通・旧神先家住宅 坊城通・旧神先家住宅
旧神先家住宅
 この住宅の当初の所有者である神先(かんざき)家は、その由緒書によれば近世初め、初代の神先備前太輔は足利家に仕えていたが、その後壬生へ移り住み、代々郷士を相続したという。
 現在の主屋は、文政3年(1820)の祈祷札が残ることや様式的にみて、19世紀の初期に建築されたものと考えられる。また、主屋の前方にはさらに8間×2間の長屋門が建っていたことが、古い間取り絵図から判明する。
 この住宅は、現在は長屋門を欠くものの、式台を構えた玄関や、主室・次の間からなる書院造の座敷構成に郷士住宅としての特徴がみられ、保存状況もよく、武家住宅風の上層民家として貴重である。
坊城通・壬生寺 坊城通・壬生寺
坊城通・壬生寺 坊城通・壬生寺「明星桜」
坊城通・壬生寺 坊城通・壬生寺
壬生寺
 律宗総本山唐招提寺の末寺であり、古い名を地蔵院・宝幢三昧寺・心浄光院などという。創建は正暦2年(992)に三井寺(園城寺)の快賢僧都が仏師定朝に地蔵菩薩像を造らせ、本尊とした。
 鎌倉時代に当寺を再興した円覚上人が正安2年(1300)当寺において大念仏会を修せられたが、これが現在の壬生狂言(重要無形民族文化財)の始まりである。壬生寺は通称で、寺号を宝憧三昧寺、院号を心浄光院という。昭和37年(1962)に本堂を焼失したが、昭和45年(1970)に再建された。
 なお新選組ゆかりの寺としても知られる。新撰組が大砲や剣術・馬術の訓練をした場所として有名であり、壬生塚には近藤勇の胸像、芹沢鴨らの墓塔がある。池田屋騒動があった7月16日には、慰霊供養祭が行われる。
明星桜
 明星桜は、約900年の昔、京都の公家浦内淡路守が松浦党祖源久公を頼り、佐賀県伊万里市東山代町浦川内に居を構えた際、望郷の念にかられ京都壬生寺から桜の苗木を運び植えたと伝えられている。
 この明星桜はヤマザクラ系で春の訪れとともに開花し、桜の下で火を焚いて眺めると、薄紅色の花弁が夜空に映えて明星の趣があることから「明星桜」と言われている。壬生寺創建一千年を記念し明星桜の里帰りを実施したものです。(伊万里市より)
壬生塚に祀られている新選組隊士> 
氏名 没年
 近藤 勇  局長  慶応4年(1868)4月25日
 芹沢 鴨   局長  文久3年(1863) 9月18日
 平山五郎  副長助勤  文久3年(1863)9月18日
 河合耆三郎  勘定方  慶応2年(1866)2月12日
 阿比原栄三郎  副長助勤  文久3年(1863)4月6日
 田中伊織    文久3年(1863)9月13日
 野口健司  副長助勤  文久3年(1863)12月28日
 奥沢栄助  伍長  元治元年(1864)6月5日
 安藤早太郎  副長助勤  元治元年(1864)7月22日
 新田革左衛門  平隊士  元治元年(1864)7月22日
 葛山武八郎  伍長  元治元年(1864)9月6日
坊城通・八木家 坊城通・八木家
坊城通・壬生の名水(鶴寿井) 坊城通・新撰組隊士腰掛けの石
新撰組発祥の地跡
 ここは、幕末の頃、京都の浪士取締りや治安維持に活躍した新選組の宿所があったところである。
 文久3年(1863)春、将軍家茂の上洛警護のため、清河八郎(きよかわはちろう)の率いる浪士組が入洛したが、その宿舎の1つとして使われたのが、当時壬生郷の郷士宅であった当屋敷であった。浪士組は、在京20日余りで再び江戸に戻ったが、当所に分宿していた、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは、引き続き京都の警備のため残留し、京都守護職松平容保(まつだいらかたもり)の支配に属して「新選組」と名のった。
 当所、新選組は、当屋敷に「新選組宿所」の標札を掲げ、隊員はわずか10数名で発足したが、次第に隊員が増加し、付近の農家にも分宿した。以後、市中の治安維持に努め、元治元年(1864)の池田屋事件で一躍その名を轟かせた。
 翌年の慶応元年(1865)4月、屯所は西本願寺に移された。
八木家住宅
 八木家は、壬生村きっての旧家で、かって壬生郷士の長老をつとめていた。また、幕末には新撰組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所として知られている。
 建物は、長屋門が東に開き、その奥に主屋が南面して建つ。当家に残る普請願から長屋門は文化元年(1804)、主屋は文化6年の造営と知られる。
 主屋は、西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を3室ずつ2列に配する。入口は土間部分に開くほか、東南隅に式台を備えた本玄関を配し、その北に仏間、奥座敷を1列に並べて格式ある構成をとっている。長屋門の外観は、腰に下見板を張り、与力窓や出格子窓を開くなど、昔のおもかげをよく残している。
 壬生地区は今日市街化が著しいが、かつては洛中に近接した農村であり、当家は幕末期の農家の遺構として、また、新撰組ゆかりの建築として貴重であり、昭和58年(1983)、京都市指定有形文化財に指定された。
壬生の名水>(鶴寿井)
 この井戸は、八木家に三本現存する井戸の一つで数百年前から湧き出て、水質に大変恵まれ飲料として適している。当寺、新撰組の人たちも毎日飲用していた、衛生上、最新の装置で汲み上げ屋敷全体に配水している。健康長寿に恵まれることから「鶴寿井」と命名された。
新撰組隊士腰掛けの石
 ここの石類は、本屋敷と表屋敷との間、つまり新撰組の道場あたりにあったものです。隊士達も腰を下ろし休んでいた。屋敷内を二、三移動した後、ここに落ち着いた。
坊城通・京都鶴屋・鶴寿庵 坊城通
坊城通・京福嵐山線 坊城通・隼神社
坊城通・梛神社 四条通
 新撰組屯所となった八木家が営業する京都鶴屋 鶴寿庵で少し休んだ後、坊城通を北へ進む。すぐに京福嵐山線の踏切に出会う。踏切を渡り四条通とぶつかる角に梛神社がある。
梛神社>(なぎじんじゃ・元祇園社)
 素戔鳴尊(すさのおのみこと)を主神とし、宇賀御魂命(うがのみたまのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)、誉田別尊(ほんだわけのみこと)などを配祀する。
 貞観11年(876)京都に疫病が流行したとき、牛頭天王(ごずてんのう)(素戔鳴尊)の神霊を播磨国(はりまのくに)広峰から勧請(かんじょう)して鎮疫(ちんえき)祭を行ったが、このときその神輿(みこし)を梛の林中に置いて祀ったことがこの神社の始まりであるという。
 後に神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀したとき当地の住人は花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送った。これがのちの祇園会(ぎおんえ)の起源といわれる。また、当社は八坂神社の古址にあたるので元祇園社と呼ばれる。維新の頃は田圃の中の一小祠であったが、明治7年(1874)と昭和4年(1929)の復興を経て現在に至った。
 境内の隼(はやぶさ)神社は延喜(えんぎ)の制度の大社で、大正7年(1918)蛸薬師坊城からこの地に移祀された。梛神社とともに厄除け、疫病払いの神である。
 坊城通は更に続いているが、この散策はここで終わりとする。

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