京都「町家小路」写真紀行   京都「町家小路」を写真と文で紹介

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寺之内通 応仁の乱の激戦地   京都市上京区
寺之内通・宝鏡寺
 寺之内通は、豊臣秀吉の京都大改造後開かれた通りで寺が多い。通りの途中にある百々橋跡の礎石は応仁の乱の激戦地であった所で感慨深い。
寺之内通 寺之内通
 北野天満宮の東側を通る御前通から寺之内通に入る。広いとはいえない通りを東に進む。千本通りとの交差点で信号待ちをしていると、犬を2匹バッグに入れた方に出会う。写真撮影の許可をいただいて撮る。なかなかカメラの方を向いてくれない。
寺之内通・池大雅の墓所 寺之内通・池大雅の墓所
 通りにある浄光寺に江戸時代の文人画の大家「池大雅」の墓がある。
池大雅の墓所
 墓は碑面に「故東山画隠大雅池君墓」と二行に記し、側面に淡海竺常(たんかいじくじょう)の撰文になる銘文を刻んでいる。
 大雅は享保8年(1723)京都の生まれ。姓は池野氏、名は無名、大雅・玉海などと号した。若くより絵を志し、柳里恭や祇園南海に学んだほか、中国の画論や画譜を通じて独学で南画を研究した。また禅を修業し、日本全国を旅行した。こうした生まれつきの超俗的な性格と相まって、無造作な画法で人物や風景を詩的に表現する独自の文人画を大成した。
 代表作に黄檗山万福寺の約30面の襖(ふすま)画などがある。30歳の頃、祇園町の娘、町と結婚し洛東真葛ヶ原に草庵を建てて住んだ。妻町も玉瀾(ぎょくらん)と号する画家として有名。夫妻とも、数々の奇行が伝えられている。安永5年(1778)大雅は54歳で歿し、遺言により当寺に葬られた。 
寺之内通 寺之内通
 江戸時代の旧街道を歩くと見られる軒下のちょっとした休み所が見られる。通りに面した店の佇まいにも癒される。
寺之内通・妙蓮寺 寺之内通・妙蓮寺「赤穂義士遺髪墓」
寺之内通・妙蓮寺 寺之内通・妙蓮寺
妙蓮寺> 
 本門法華宗の大本山で、卯木山と号し、日像上人を開基とする。
 永仁3年(1295)に、柳屋興入道妙蓮法尼が、日像上人に帰依して、西洞院五条の邸を寺に改め、柳寺と称したのが当寺のはじめで、永享年間(1429〜1440)に、日存・日道・日隆・日慶らが、大宮通四条下るに伽藍を移築造営し、妙蓮寺と改めた。
 その後、たびたび寺地をかえ、天正15年(1587)豊臣秀吉の聚楽第造営のとき、今の地に移った。現在の建物は、天明の大火(1788)後の再建である。
 玄関・奥書院の襖絵は、長谷川等伯一派の筆といわれる濃彩の金碧(こんぺき)画で、庭内の奇石とともに秀吉が寄進したものと伝える。なお、寺宝には、本阿弥光悦の筆になる立正安国論(重要文化財)などがある。
赤穂義士遺髪墓
 当山内東北の境内墓地に平成14年(2002)2月に再建された赤穂義士四十六士の遺髪墓がある。
 元禄14年(1701)勅使下向の接待役であった赤穂藩主浅野長矩が、城中典礼の儀にて恥をかかせた吉良上野介を刀で斬りつける事件を発生させた。江戸城中では許されぬこの事件で浅野は切腹となった。
 主君の仇を討たんと決起した赤穂藩の家臣大石内蔵助(良雄)ら四十七士が吉良邸に討ち入り上野介を討ち取ったが、罪により切腹となった。その四十六士の遺髪を同士であった寺坂吉右衛門が赤穂城下への帰路道中、京伏見に住む片岡源五右衛門の姉宅に立ち寄り、当時の事情により遺髪を託した。
 赤穂義士の遺髪は、主君の三回忌にあたる元禄17年2月、この姉が施主となり菩提寺である当山に墓を建立し納められた。以降300年の風雪により損傷甚だしいため、当山により再建された。
寺之内通・北村徳斎帛紗店 寺之内通・堀川通との交差点
 堀川通に出会う直前に歴史的意匠建造物に指定されている北村徳斎帛紗店がある。しばし眺める。堀川通との交差点を渡り更に東に進む。
寺之内通・宝鏡寺 寺之内通・宝鏡寺
宝鏡寺
 宝鏡寺は、西山と号する臨済宗の寺院で、寛永21年(1644)に後水尾天皇の皇女理昌尼王が入寺してからは尼門跡寺院として栄え、今日も百々御所の名で知られる。
 境内は天明8年(1788)の大火で焼失し、まず復興されたのが書院で寛政10年(1798)3月に上棟した。建物は、東端北寄りに主座敷である御座の間、手前に次の間の大広間を配し、さらにこの西寄りに猿の御間以下七室と鞘の間が三列に並ぶ。襖絵は、天保4年(1833)に円山派の絵師により描かれたものである。
 この後、少し遅れて文政13年(1830)に本堂・使者の間・玄関等が造営された。このうち本堂は、前後各3室からなる六間取の方丈形式で、後列東端は床を一段高くして上段の間とするが床の間・棚等の座敷飾りを欠いている。また、室境には狩野派の絵師により描かれた襖絵が残る。
 さらに弘化4年(1847)、光格天皇勅作の阿弥陀如来像とともに御所の建物の古材を賜り、阿弥陀堂が造営された。宝鏡寺の書院以下のこれらの建物は、尼門跡寺院の構成をよく伝えるものとして価値が高い。
 春秋2回、皇室から下賜された寺宝の人形・調度品などが展示されると伺う。
寺之内通・百々橋の礎石 寺之内通・百々橋の礎石
百々橋の礎石
 この石は、応仁の乱(1467〜1477)の戦場として歴史に名をとどめる「百々橋」の礎石の一つである。
 百々橋は当地を南北に流れていた小川に架かっていた橋(長さ約7.4m、幅約4m)で、橋名は、応仁の乱以前の風景を描いたといわれる「中昔京師地図」に当地が「百々ノ辻」と記載されていることに由来すると伝えられる。
 応仁の乱の際、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両軍が、橋を隔てて数度にわたり合戦を行い、この小さな橋に戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれることとなった。
 古来板橋であったが、近世になって石橋に架け替えられ、昭和38年(1963)に小川が埋め立てられた際、橋も解体されたが、地域の方々のご尽力より、橋材は一時、室町小学校で保管された。
 その後、橋材の大部分は洛西ニュータウンに移され、竹林公園内に復元されたが、橋脚を支える四基の礎石のうち一基は室町小学校の校庭に、一基は百々橋をしのび貴重な遺橋として当地に遺された。 
寺之内通・妙顕寺 寺之内通・妙顕寺
寺之内通・妙顕寺 寺之内通・妙顕寺
妙顕寺
 当山は具足山妙顕寺と称し、日像聖人が元享元年12月(1321)後醍醐天皇より寺地を賜って開創された京都における日蓮宗最初の道場である。日蓮宗の洛中二十一本山の中心として栄えたが、天文5年(1536)の天文法華の乱で焼失した。天正11年(1583)に豊臣秀吉の命により、現在の地に移転する。天明8年(1788)には天明の大火により焼失したが、その後再建された。 
寺之内通・尾形光琳菩提所の碑 寺之内通
 尾形光琳菩提所の石碑がひっそりと立っている。少し進むと烏丸通の大通りに出会う。ここで寺之内通の散策は終わる。 

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