写真紀行・旅おりおり トップページへ 旅先で出会った印象的な一こま、街角でふと見つけたなつかしい景色などの写真紀行


印象に残る景色
街角灯台横丁・小路
史跡を訪ねる
街道を行く史跡城・城跡
人物奥の細道墓地・終焉の地PLAY BACK
建築・構造物の巧みさ
伝統的建築先端建築神社
テ−マパ−ク垣根
四季の風景
山・峠川・滝湖・池・沼
海・海岸
産業
伝統・地場産業漁港温泉自動車機関車・電車
往来・交通の景観
沿線風景路面電車道風景通り
祭・歌の舞台
祭・イベント歌の舞台夜景
食・その他
食紀行リンク集管理人備忘録

写真紀行・旅おりおり 更新情報

木村重成の首塚 宗安寺   滋賀県彦根市
木村重成の首塚
木村重成の首塚 木村重成の首塚
 五輪の塔が、重成の首塚です。横に並んでいる3基の墓は、大阪夏の陣で若江堤より首を持ち帰った安藤長三郎代々の墓です。
木村長門守重成首塚の沿革
 元和元年(1615)4月、大阪夏の陣の戦いの際、徳川家康の武将井伊直孝の軍はかねてより平野口に向かう命を受けていたが、軍略上これを変更し6日に大和口に向かった。ところが豊臣秀頼の武将木村重成はすでに部下を率いて若江堤(現東大阪市)に陣をしいた。
 ここにおいて激戦数刻(一刻は2時間)、一勝一敗であった。直孝の部下山口伊豆守、千野八十郎、川手主水等の諸将が先ず戦死した。木村方にも部下の戦死者を多く出した。しかし互いによく戦って勝敗は容易に決しなかった。直孝はこの有様をもどかしく思い、馬を陣頭に進め大呼して「敵の隊伍は乱れた。この機に乗じて勝を制せよ。皆怠ることの無きよう」と激しく下知した。遂に木村勢の兵は崩れて散乱した。重成も未明よりの戦いに大変疲れ、身に数ヶ所の深手を負い、身体は綿のごとく、加えて部下の兵は僅かに20余人となったので、重成は後方の堤に上がり槍を杖にして敵勢を見てみた。
 この時、直孝の武将庵原助左衛門が走って来て言うのには「あなたは木村重成殿ではありませんか、さきほどよりの働きはお見事です。私は井伊の家来庵原助左衛門です。いざ見参しましょう」と立ち向かった。重成は直ちに槍を取り直してこれに応じ健闘、その手合わせは虚々実々、お互いに力を尽くす戦いとなった。けれども多勢に無勢、加えて数ヶ所の手傷に進退は自由にならず、遂に庵原の十字の槍に幌を引っ掛けられて水田の中へ引き倒された。庵原の部下は首を取ろうと近寄る。たまたま安藤長三郎が走ってきて「私は未だ著しい功名がないので、この首私にいただけませんか」と言った。助左衛門は「よろしい。この首は進呈する」と。すると助左衛門の家来が、「この首は決して他人に与えてはいけません」と言うと助左衛門はおもむろに家来を諭して「自分は井伊全軍の勝敗に責任を持つ重職であって、一騎打ちをして功を立てたいと思うものではない」と言うので家来は「では後日の証拠にするために」と重成の白熊の幌と金の捻竹の串とを取って帰った。重成の首は長三郎がこれを切り、傍にあった薄に包んで帯刀と共に持ち帰った。
 重成は冬の陣の講話の際は家康の血判見届け役を勤めた。進止に節度があり、動作は礼節があって敵将等の肝を冷やさせたが、今ここに壮烈な最期を遂げ武士道の精華を発揮し、後世に武将の鑑を示し、生年僅か23歳で戦場の露と消えた。かくて直孝は重成の首を家康の首実験に供した。家康は褒めたたえた。やがて長三郎はこの首を貰い受けて凱旋のとき密かに持ち帰り、香花寺である宗安寺の自分の墓地に埋葬して、先祖の墓と並べ五輪の塔を建ててまつり、重成の戒名は並んで立つ長三郎の碑の正面に刻んだ。
 即ち 智覚院殿忠翁英勇大居士 と
(この時、首を包み持ち帰った薄を直孝は記念のために御殿の傍らに植えたが、明治維新の後、御殿を壊した際佐和山神社内へ移し植え今なお繁殖している有名な血染めの薄がこれである)
 けれども江戸時代には重成は敵軍の将であるから、幕府方の安藤家において公然とまつることは遠慮し、ただ大切な先祖の墓と言いつくろった。明治維新後は誰にも憚ることがなくなったのでその由来を明らかにし、世人もこれを敬い併せて安藤の心情をおもんばかった次第である。
(木村長門守重成首塚の沿革)
(佐和山神社境内に植えられた薄は、近年枯死に近い状態となり、見かねて最も由緒深い宗安寺に三たび転植され現在繁茂している)
血染のすすき
 元和元年(1615)大阪夏の陣で若江堤に武運のつたなくして討死した豊臣方の名将木村重成の首級を彦根藩士安藤長三郎は傍らに生い繁るすすきに包み込みこれを護持して帰陣した。井伊直孝の居館としていた佐和山の麓の池で丁寧に洗い首実見を得て、大いに面目をほどこし懇なる弔いをせよとの言葉により己が菩提寺の安藤家墓所に厚く葬り、自家先祖と同様に祭祀すること今日まで続いている。
 当時の佐和山下のすすきは如何なる因縁かその処に根付き繁茂していたのであるが、鉄道の敷設により根株を中腹の佐和山神社前の手水鉢脇に移された。
 この宮も昭和13年(1938)廃社となり、隣地の井伊神社堀側に移植されたのであるが、近年枯死に近い状態を見かねて最も由緒深い宗安寺に三度転植したところ数ヶ月してたちまち活色を呈し、この生彩を取り戻した。360余年を経た今日、その処を一にした重成首塚を血染めのすすき、是も尊き仏縁の導きかと広大無辺の感深きを覚える。 

 外部リンク  日本観光振興協会  文化遺産オンライン  彦根観光協会

地図

墓地・終焉の地
赤穂浪士 織田信長 緒方洪庵 梅田雲浜 沖田総司
榎本武揚 於大 伊能忠敬 伊豆長八 太田道灌
石出掃部亮吉胤 岡村昭彦 大隈重信 芥川龍之介 石川啄木
岡倉天心 岡本綺堂 大久保利通 緒方竹虎 石原裕次郎
尾ア士郎 井伊家歴代墓所 青木昆陽 明智光秀 足利尊氏
伊藤仁斎 池大雅new
春日の局 桂小五郎 祇王 葛飾北斎 紀伊国屋文左衛門
清河八郎  木村重成 上山草人・山川浦路 黒田清隆 加藤友三郎
小村壽太郎 後藤新平 紀州徳川家 木地師墓石群 吉良家墓所
吉良仁吉 吉三郎 グラバー家 外国人墓地(横浜) 外国人墓地(函館)
外人墓地(東京) 吉良家
坂本龍馬 佐久間象山 寂光土 彰義隊 薩摩浄雲
曾我兄弟 司馬江漢 蜀山人 島田虎之助 三条実美
杉浦重剛 三遊亭円朝 佐藤春夫 斎藤茂吉 志賀直哉
信玄塚 清水次郎長 清水一学 斎藤鶴磯 千姫
角倉了以 十七烈士 蘇我入鹿 雪舟 坂本国際墓地
豊臣秀吉 豊臣秀次 徳川慶喜 天誅組 遠山金四郎
田沼意次 千葉周作 平将門 高村光太郎 田中芳男
高島鞆之助 忠犬ハチ公 田中久重 高峰譲吉 孝子
谷文晁 高橋至時 長州藩士の墓
中岡慎太郎 二宮尊徳 乃木希典 那須与一宗高 中原悌二郎
新田義貞 中村憲吉 永井隆
幡随院長兵衛 林芙美子 樋口一葉 浜口雄幸 北条時政
本阿弥光悦
向井去来 間宮林蔵 松平定信 松本幸四郎 身禄行者
明珍本家 源頼朝 松本楓湖 源範頼 源頼家
万平塚 毛利家 森鴎外
吉田松陰 八百屋於七 山岡鉄舟 山路愛山 山縣有朋
与謝蕪村 吉野太夫 有無両縁塔
雷電為右衛門

コメント
このページへのコメント
コメントを書いてください。


木村重成・・・
見事な最期です。


投稿者: 糸井久和 : 2008年10月11日 03:43
トラックバック
このエントリーのトラックバックURI: http://www.uchiyama.info/oriori/cgi-bin/blog/mt-tb.cgi/1659




Google
WWW を検索 写真紀行・旅おりおり を検索

写真紀行・四季おりおり花紀行・花おりおり京都写真紀行写真紀行・海外おりおりの旅

「写真紀行・旅おりおり」の画像を利用したい場合は、「」より連絡してください。
Copyright (C) 2007-2012 写真紀行(uchiyama.info) All Rights Reserved.