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<井伊氏歴代墓所>
井の国を本拠としてきた井伊氏は、平安時代より室町時代まで、遠江の代表的国人領主として西遠地方(静岡県西部地方)を治めてきた。井伊介(いいのすけ)を名乗り鎌倉幕府に仕え、南朝方の皇子宗長親王を迎え、北朝軍と戦った。室町時代今川軍が遠江に侵攻すると、敢然と立ち向かったが敗れた。
戦国時代に入った井伊家は受難の連続だったが、今川義元に従って出陣した井伊家の当主22代直盛は桶狭間で戦死。永禄5年には養子直親が今川の手で殺害される。やむなく龍譚寺南渓和尚は直盛の娘、次郎法師を「女性地頭」に立て、井伊家の急場をしのいだ。
永禄11年徳川家康が遠州に侵攻、井伊領を押領した家老を追放し井伊谷(いいのや)を平定する。天正3年井伊家24代直政が浜松城で家康に仕え、見事に井伊家を再興した。
この墓所には、こうした井伊氏元祖共保より600年の歴史が静かに眠っている。
<井伊谷三人衆>
永禄11年(1568)12月15日、徳川家康は、井伊谷3人衆の先導で豊川、宇利を経て三河遠州境の陣座峠を越え、奥山へ入り井伊谷城を攻める。当主不在の城はあっさり落ちる。家康は兵を整え瀬戸、三方原を経由し12月18日引馬城(浜松城)を攻略、念願の遠州進攻を果たし、いよいよ天下取りに向け大きく一歩を踏み出した。
この時家康を助けたのが、のちに井伊谷三人衆と呼ばれた奥三河の土豪鈴木重時(新城市山吉田城主)、菅沼忠久(都田在・田峯菅沼の分家)、近藤康用(新城市宇利城主)です。
三人は今川の配下で、この時期井伊氏の与力として仕えていたが、今川氏真が井伊氏を滅亡させようとする仕打ちに腹を立てていた。そこへ家康が恩賞を厚くし、徳川方につくように誘う。そこで三人は家康に内応し、家康の遠州進攻を援けた。
三人衆は、龍譚寺で葬られ、この墓所の奥に祀られている。井伊氏が彦根に移ると、三人衆のうち近藤家が幕末までここ井伊領を治めていた。
鈴木重時:永禄12年2月5日堀江城合戦で戦死 享年42歳
菅沼忠久:天正10年没
近藤康用:天正16年3月2日井伊谷で没 享年73歳 |
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<戦国期の井伊家を支えた武将の墓>
戦国初期ここ井伊領では、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、三河の徳川氏が三つ巴で覇権を争った。遠江の代表的国人領主(在地領主)であった井伊氏にとって受難の時代だった。この井伊家を懸命に支えた武将たちがここに葬られている。
○桶狭間合戦戦死の墓
永禄3年5月19日、井伊22代直盛に従って戦死した武将16名を祀る。
○新野左馬助の墓
永禄5年井伊23代直親が今川氏真の手で殺害され、その子直政も命をねらわれる。時の家老新野左馬助が命にかえ、氏真に訴え直政の命を救った。
○中野氏の墓
井伊氏の一族中野氏の墓です。中野三代信濃守は幼い直政に代わり井伊谷城代を務め、永禄7年引馬城攻めで戦死した。
○鈴木重時の墓
直政の祖父、井伊谷三人衆の一人、三河山吉田城主で、永禄12年堀江城攻めで戦死した。 |
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上画像は、井伊家歴代墓所のある龍譚寺。
<徳川四天王 井伊直政>
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄4年(1561)2月9日井伊の庄祝田(ほうだ)で、名門井伊氏の嫡男として生まれた。2歳の時に父直親が今川氏真の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立つ。8歳の時、直政が龍譚寺南渓和尚の計らいで、三河鳳来寺に預けられ成長する。
15歳になった直政は、浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てる。天正10年武田勝頼を攻め滅ぼした家康は旧武田軍の「赤備」の軍を直政に付ける。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられた。この功で直政は6万石に出世、井伊家再興を果たした。
慶長5年、関ヶ原合戦では東軍の軍監(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世した。
慶長7年(1602)2月1日、直政は42歳の生涯を閉じた。 |
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外部リンク 日本観光振興協会 文化遺産オンライン はままつ旅百花
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