 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
井伊谷城はこの地の領主である井伊氏が築いた山城です。 標高約115mの山頂に、 単郭式の曲輪が築かれている。山頂の北半分は自然の地形を残し、南半分は平らに均されている。曲輪の周りには土塁がめぐり、南側と西側に出入口をもち、南側の出入口は大手に、西側の出入口は搦め手に相当する。大手口の両側には土塁が高く築かれており、防御を固めている。
井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその麓にあった城館に加え、最終的な詰め城である三岳城 (井伊谷城の北東2qに所在)で構成されていた。江戸時代の記録によると、
井伊谷城は「御所の丸」 と呼ばれていた。 南北朝の動乱期に、南朝方の拠点として宗良親王 (後醍醐天皇の皇子) を擁した場所と関連づけられていたことがうかがえる。
井伊氏は、平安時代の在庁官人からはじまり、中世には国人領主として、浜松市北区一帯 (引佐、 細江、 都田など)を治めた。 南北朝の動乱期には、この地に宗良親王
(後醍醐天皇の皇子) を迎え、南朝方の活動拠点とした。
戦国時代には当地の支配権を巡って、今川、武田、徳川の各勢力が争い、当主である井伊氏は大きく翻弄された。とくに、永禄5年(1562) 井伊直親が謀殺された後は適齢の男子がなく、井伊氏は存亡の危機を迎えた。この時に、城主としてふるまったのが、女性領主、井伊直虎です。天正3年(1575)直虎は直親の子である虎松(のちの井伊直政)を徳川家康に引き合わせ、
井伊氏再興の道を開いた。 |
|
 |
|
<井伊氏居館跡>
江戸幕府の柱石の大名中、数少ない大老職の家柄と仰がれた彦根藩主井伊氏発祥の地は、引佐の井伊郷で、この場所が屋形の跡です。(画像の城山とは違う所です)井伊氏の元祖共保公は、藤原鎌足5世の裔、閑院左大臣冬嗣の男良門の流れを掬む藤原備中守共資を父とし、共資が一條天皇の正暦年中、遠江の廳に来住した時、井伊郷の荘司三宅篤茂の女を娉い、寛弘7年正月篤茂の館に於いて生誕したと謂われている。
以来日本八介の一、遠江の井伊ノ介と謳われ、南北朝、東海に於ける南朝の拠点として、後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎え、ここ城山に御所を構え、東北三嶽山頂に山城を営み、激烈な戦火を繰り広げた。
以後戦運南朝に利あらず、戦国の世には今川氏の為に悲運を繰返し、直政公出生の翌年、永禄5年には幼主直政公も此處を立退き、遂に主無き館となった。
嘉永5年6月、彦根藩主、時の大老井伊直弼公は親しく此の館跡を訪れ、境内にある守護社井伊大明神に詣で旁附近の史跡を巡覧した事が伝えられている。 |
|
 |
|
井伊谷城は、山頂に土塁を巡らせるだけの単純な構造です。城の南側は方形を意識して平坦に造成されているが、北側は自然地形が残った状態です。大手口は南東に向けられ、その延長方向の山麓には井伊氏居館跡が位置し、城と居館が密接な関係をもつことがうかがえる。
徳川家康や武田信玄が遠江の覇権を争う頃になると、斜面に曲輪を設けたり、堀を備えたりするようになるが、井伊谷城にはそうした施設がみられない。井伊谷城は古い時代の方形居館の特徴を残したまま、廃城になったとみられる。(井伊谷城復元模型(推定) |