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武市半平太は、 文政12年(1829)生まれ。幼名鹿衛、諱は小楯、瑞山は号。 別に吹山、茗欄の号がある。本名は小楯、通称半平太。文武両道の達人で新町田渕に道場を開く。また美人画をよくした。つとに勤王の志厚く、土佐勤王党の党主となる。
幕末に土佐勤王党首領として活躍したが、文久3年(1863) 8月の政変(尊攘派公家と長州藩を朝廷から排除したクーデタ)の、後、弾圧をうけて投獄され、慶応元年(1865)閏5月11日に切腹を命ぜられた。37歳。
墓碑には、 武市半平太小楯と刻してあり、妻・富の墓と並んでいる。
<獄中遺詠>
「花依清香愛人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明」
花は 清香に依って 愛せられ
人は 仁義を以って 栄ゆ
幽囚 何ぞ恥ずべけんや
只 赤心の 明らかなる 有り |
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旧宅は元藁葺き式平屋建ての典型的な郷士住宅で、数は6室、客室は8畳で柱に瑞山が文字を刻記した痕が認められる。文政11年(1829)〜慶応元年(1865)半平太は、こちらの旧宅に22歳まで居住していた。宅地225坪で、
その頃の規模が残っている。屋根は、元は藁葺だったが、現在は銅板葺となっている。(現在は民家として使用されているので旧宅は非公開) 旧宅の右手には、瑞山神社が建てられている。 |
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