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正式名称は北野山真福寺宝生院。(真言宗智山派別格本山)もともとは尾張国長岡庄大須郷(岐阜県羽島市大須)にあった。御開山は能信(のうしん)上人です。慶長17年、徳川家康により当地に移された。本堂は戦火で焼失したが、昭和45年に再建された。
大須文庫には、国宝の古事記写本を始め1万5千冊を所蔵している。名古屋の人々は、「大須観音」と呼び親しまれている。老若男女問わず参詣客が絶えない。近くの大須観音通り商店街の揚げパン屋が懐かしい。早速買い求める。 |
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<大須観音略縁起>
当寺は、もと尾張国長岡庄大須郷(現:岐阜県羽島市大須)にあった。御開山は能信上人です。 元享4年(1324) 後醍醐天皇は、勅願を下し、長岡庄に北野天満宮を御造営になった。
天皇は能信上人に深く御帰依になり元弘3年(1333) 上人をその別当職に補し、「北野山真福寺寳生院」という寺号を賜った。能信上人は当寺の開創にあたり、伊勢大神宮に百ヶ日間こもり、「この世の人々が、おすくいをうけ、おめぐみいただきますには、どなたさまをおまつりいたしたらよいでしょうか」と一心不乱に祈った。
上人の誠は神に通じ、ある夕べの霊夢に、 「大慈悲の観世音こそは利益無量、この世の人びとに、もっともありがたいお方である」とのお告げをえられそのうえ観世音の貴いお姿を拝されたのである。そのお姿は、むかし弘法大師が一刀三礼御彫像あそばれた摂州四天王寺の大慈大悲の観世音菩薩に寸分たがわぬ御尊影であった。霊夢のふしぎは、後村上天皇の御代にいたり朝廷にたっし、詔によって、当寺に移され、御本尊と仰ぐこととなったのである。
それから後、霊験はまことにあらたかなものがあった。 後村上天皇も厚く上人に御帰依になり、伽藍を建立し、田地をたまい、すえ長く「勅「願寺となす」との詔を下された。能信上人は、学徳ともに高いお方で、当寺の所蔵する書物は、東西の学者が珍重しているところだが、それらの多くは、上人がお集めになったものです。さらに上人は全ての人々から尊信をうけ、ある時には神宮の巫女が、僧伽梨衣というおけ大神のおさずけとして持ち来り、またある時には、神人が鬼面を持って来て「この面は観世音垂跡の夜叉面ゆえに、加持を加え、諸人の禍をのぞき、福をさずけよ」と申したと伝えている。そしてこれらは寺宝となって伝わっている。御本尊の霊験は年とともに海内にひびきわたり、第2代住職は信瑜上人第3代住職としては任瑜法親王がおつぎになり、寺領も一万余石におよび、伊勢・美濃・尾張・三河・遠江・信濃六ヶ国の真言宗寺院を末寺とした。その後戦国の世とんったが、織田信長も寺領500石を寄進し、徳川家康に至っては、名古屋を建設経営するにあたり、慶長17年、まず第一に、いまこの地にうつされたのであります。はたせるかな霊験日に日に新に、善男善女の参詣きびすを接し、市の一大中心として繁栄し、「大須観音」と俗称され、真言宗智山派別格本山として今日に至っているのである。 |
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