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照國神社 薩摩島津氏   鹿児島県鹿児島市
照國神社
照國神社 照國神社
照國神社 照國神社
 祭神(斉彬)は、文化6年(1809)薩摩藩主島津斉興(なりおき)嫡男として江戸で誕生する。幼少の頃、曾祖父母島津重豪や母、賢章院の薫陶を受けられ、学問を好まれ、広く世界に眼を向けた開明的な考え方と科学的な知識を身につけた。
 斉彬は、嘉永4年(1851)、43歳で藩主に就任するや、幕末の内外多事多難な状況に対応して国事に奔走、欧米諸国のアジア進出の情勢を踏まえて、日本を強く豊かな国にするため、積極的に西洋の科学技術の導入に努めた。さらに、その核となった日本初の西洋式工場群「集成館」を鹿児島に設置され、「富国強兵」「殖産興業」という理念のもとに、近代日本の礎を築いた。
 また、斉彬の発案による日章旗(日の丸)の制定は、まさに日本が国際社会にその一歩をしるした象徴である。
 斉彬は安政5年(1858)50歳で薨去された。治世僅か7年であったが、この間、明治維新に活躍した多くの人材を育成している。文久3年(1863)には生前の幾多の事蹟を称えて、勅命により照国大明神の神号授けられた。そして一社を南泉院の郭内に創建し、翌元治元年照國神社と称した。当社は明治6年県社、同15年別格官幣社に列格せされ、今日鹿児島県の総守護神・氏神様として崇拝されている。
照國神社・保存樹
保存樹
 この樹木は、鹿児島市保存樹及び自然環境保護地区に関する条例により指定された保存樹です。
●樹種名:イヌマキ(幹周り1.82m、木の高さ3.0m)
●樹 齢:約170年 
照國神社・島津斉彬像 照國神社・島津斉彬像
島津斉彬>(1809〜1858)薩摩藩28代当主
 島津斉彬は、文化6年(1809)薩摩藩主の27代島津斉興(なりおき)の嫡男として誕生する。母は鳥取藩主池田治道娘賢章院です。海外の文化に強い関心を示した曽祖父島津重豪に可愛がられ育てられたため、斉彬も海外の情報・文化に精通されるようになった。
 そして、アヘン戦争(1840〜1842)で、アジアの大国・清国がイギリスに敗れたことから、西欧諸国の植民地化政策を恐れ、斉彬は、日本がひとつにまとまり、強く豊かな国づくりを目指すべきだと考えた。
 そして、嘉永4年(1851)藩主になると、鹿児島の磯に「集成館」と言う工場群を築き、ここを中心に、造船・製鉄・紡績・電信・ガラスなどの様々な事業に取り組んだ。また、人材育成のため教育にも力を注ぎ、西郷隆盛や大久保利通など有能な人材も育て上げた。
 斉彬は、安政5年(1858)、世を去ったが、日本を強く豊かな国に生まれ変わらせるという夢は、弟の島津久光やその長男忠義、さらに西郷隆盛や大久保利通ら多くの家臣の手で実現された。
 この斉彬の銅像と、隣接の探勝園内にある久光・忠義の銅像は、大正6年(1917)彫刻家の朝倉文夫(1883〜1964)によって作製されたものです。
照國神社・島津久光像 照國神社・島津久光像
島津久光
 島津久光は島津家第27代島津斉興の第5子として、文化14年(1817)、鹿児島城(鶴丸城)に生まれた。第28代島津斉彬の異母弟にあたり、斉彬の遺言で久光の子の忠義が藩主となると、その求めに応じて「国父」として藩政の実権を握り、忠義を後見した。
 文久2年(1862)、斉彬の遺志を継ぎ、朝廷を奉り、幕政改革を志して千人の兵を率いて上京。江戸から帰る際には薩英戦争へとつながる生麦事件が起こった。その後、公武合体運動を進めるが思うように進まず、ついに倒幕へと向かう。
 明治以降になると、明治6年(1873)には内閣顧問、翌年には左大臣となるが、政府首脳との対立もあり、明治8年(1875)には辞任して鹿児島へ帰郷し鶴丸城二の丸に入った。しかし、西南戦争が起こると、中立を守って桜島に移居。西南戦争後は、二の丸も焼けたため、第27代斉興が建てた玉里邸を再建して隠居。晩年は歴史書編纂に努めた。明治20年(1887)に70歳で病没し、国葬により福昌寺墓地に葬られた。この際に玉里邸の黒門から国道まで新しい道路がつくられたが、この道は「国葬道路」と呼ばれている。
照國神社・島津忠義像 照國神社・島津忠義像
島津忠義
 島津忠義は天保11年(1840)、島津久光の長男として生まれた。島津家第28代斉彬の遺言によって斉彬の娘と結婚、薩摩藩主となり、祖父の斉興、父の久光の補佐を受けながら、藩政改革と陸海軍の充実に努めた。
 文久2年(1862)の久光の挙兵上京、幕政改革、生麦事件、薩英戦争には藩をあげて行動するとともに、薩英戦争後イギリスとの関係改善を図り、五代友厚などの使節団や留学生を派遣して人材育成を図るとともに、日本最初の紡績工場をつくるなど、集成館事業の充実に努めた。
 明治維新後には、長州藩、土佐藩、佐賀藩などとともに、進んで版籍奉還を行い、鹿児島藩の知事、後に貴族院議員となった。幕末から明治維新の真っただ中に生きた忠義は律儀な性格で、父・久光の遺言で死ぬまでマゲを切らなかったといわれている。明治30年(1897)、58歳で没するが、父・久光と同様に国葬が行われた。 
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