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宇喜多秀家は、豊臣秀吉の五大老の一人として、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは石田三成に加勢し、西軍の大将として東軍と戦ったが、敗れて八丈島へ流罪となった。
敗戦後は薩摩島津氏の下で3年蟄居(ちっきょ)していたが、島津氏の助命嘆願で死罪を免れ、慶長11年(1606)に八丈島へ流罪となった。罪を許されることなく明暦元年(1655)
に83歳で亡くなった。
加賀金沢藩前田家は、藩祖・利家の娘・豪が宇喜多秀家の妻だった関係で、八丈島の秀家の子孫に対し、江戸時代を通じて米70石や衣類・金銭などを送って援助していた。
明治5年(1872)、明治政府から罪を許された秀家の子孫は、秀家の妻が前田利家の娘であった縁により八丈島を離れ、金沢藩に身を寄せた。前田家から約2万坪の土地と当面の生活費を与えられて、旧加賀藩下屋敷跡に入植した。秀家の供養塔は、この時に建立されたと考えられる。
供養塔(廟所)は、場所を転々と変えたが、昭和33年(1958)に一族の菩提寺である東光寺の境内に移設された。供養塔は小松石製で、「秀家卿」の文字が隷書で彫られている。
現在、供養塔は、宇喜多同族会によって 祀 られており、板橋区の登録有形文化財に指定されている。 |
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<東光寺>
本尊: 阿弥陀如来 宗派:浄土宗 丹船山薬王樹院
創建年次は不明だが、寺伝によると延徳3年(1491)に入寂した天誉和尚が開山したといわれている。当初は、船山(現、板橋3142)あたりにあったが、延宝7年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移った。
移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び賑やかであったようだ。しかし、明治初期の大火や関東大震災による火災、そし第2次世界大戦による火災と、たび重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできない。なお山号の丹船山は、地名船山に由来している。
境内には、昭和58年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文2年(1662)の庚申塔と、平成7年度、板橋区の有形文化財に登録された石造地蔵菩薩坐像、明治になって子孫が供養の為に建立した宇喜多秀家の墓(供養塔)などがある。 |
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