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ヴェンセスラウ・デ・モラエス モラエス旧居跡 徳島市
モラエス像
 ヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエスは1854年5月30日に父ヴェンセスラウと母アマリアの長男としてポルトガルの首都リスボンに生まれた。5歳年長の姉、3歳年下の妹がいた。幼い頃から詩作をするような文学少年であったが、生活のためか軍人の道を進む。18歳で理工科学校海軍予科に入学、海兵科に進み俸給を得るようになった。1874年7月に初めて艦船に乗り組み海上勤務を始める。1875年10月、21歳で海軍少尉に任官した。足掛け10年4回にわたる東アフリカのポルトガル領モザンビークに駐在勤務をしている。
 1888年7月、東洋の地マカオに来訪、以後ここを拠点にたびたびマカオ海域での海上護衛輸送任務に従じている。
 明治22年(1889)に日本巡航で、長崎、神戸、横浜に初来日して日本の景色を称賛している。
 1891年、マカオ港港務副司令官に任命され、少佐に昇進した。
明治26年(1893)兵器購入で日本に出張命令を受けこの時モラエスは日本の方々の観光地を旅行し日本の知識を貪欲に吸収していった。以後毎年のように日本に出張し日本へ傾倒していって後に「極東遊記」、「大日本」をポルトガルで出版した。
 モラエスらの運動で、明治32年(1899)年に日本に初めてポルトガル領事官が開設されると、在神戸副領事として赴任、精力的に勤務に励んだ。
 明治43年(1910)ポルトガル本国で革命が起こって、体制が変わり、領事館廃止問題がちらついて、一時送金途絶が生じ彼を苦しめた。それども大正2年(1913)年3月に総領事認可状が発行されていた。しかし、この頃、半年前のおヨネの死による精神不安、若い頃からの著作に専念する憧れもあって引退を決意していた。そして、総領事と海軍士官の辞任願いを本国に送付した。
 領事館業務の引き継ぎ準備をしながら田舎に隠棲をすることに決めた。知人の伝手で出雲市に移住も考えていたが、4月中旬、おヨネの墓参で徳島に行き、斎藤家とも話し合い、このとき、最終的に徳島に移住を決めたようだ。
 7月初旬に神戸の住居を引き払い徳島市に移住しおヨネの姪である斎藤コハルと暮らすが、3年ばかりでコハルにも先立たれる。その後、一人になってからの徳島での生活は必ずしも楽ではなく、スパイの嫌疑をかけられたり、「西洋乞食」とさげすまれることもあった。
 昭和4年(1929)長屋で変死体で発見された。75歳の生涯であった。
 今日ではモラエスは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)とともに、日本文化を紹介した人物と知られているが、生前は人そのもの、その業績はあまり知られていなかった。
 モラエス顕彰運動は昭和10年(1935年)7月1日のモラエスの7回忌に行われた追悼式から始まった。モラエスの著作もこの頃から、邦訳が多くされていった。
神戸での領事館時代
 明治32年(1899)1月から大正2年(1913)6月までの14年間、大阪神戸領事館での勤務時代の私生活の大部分を神戸大阪で芸者をしていた時に知り合ったおヨネと神戸市山本通り(三宮駅の北方)の領事館公邸で過ごしている。
ヨネ(おヨネ)
 ヨネは明治8年(1875)徳島市の下町に三女として生まれた。姉トヨ、ユキがいた。12歳頃、大阪か神戸の芸者置屋に出されていたという。モラエスが神戸領事となった明治33年(1900)頃、ヨネの美しさ、性格に惚れ込んだ彼の求愛を受け入れて同棲をはじめたが、籍を入れた正式な結婚ではなかった。神戸の生田神社で神前結婚式をあげたとの話も言い伝えられているが、写真、資料も残っていなく確証はない。モラエス46歳、ヨネ25歳であった。ヨネの希望を入れて金毘羅参りや徳島の盆踊りに二人で行っている。同棲してしばらくして病気がちになったようだが、13年ばかりの生活の後半6年は心臓脚気で病床に臥せることが多く姪のコハルを神戸の自宅へ看病を兼ねて女中として雇っている。大正元年(1912)8月20日、38歳で死去した。モラエスは姉のユキにヨネの遺骨と相当な金を渡し、故郷の徳島に立派な墓を建てている。
徳島での隠棲生活
徳島の住居
 モラエスは徳島隠棲にあたって、おヨネの姉の斎藤ユキに潮音寺に近い手頃な借家を頼んでいた。大正2年7月(1913)モラエス59歳時、眉山東沿いの徳島市伊賀丁に新築されていた4軒長屋の南端、二間間口の借家に入居した。家賃は月3.5円であった。
 間取りは、一階が玄関たたき、二畳、六畳、台所土間で風呂はなかった。コハルは茶の間兼寝室の6畳に住み、家事をした。二階は8畳一間でモラエスの書斎兼寝室とし西側の窓から、眉山の緑の山々が望めた。東側には10坪ほどの庭地があり、洗濯・物干場と小さな日本庭園をしつらえた。井戸は長屋の共同で、飲料水は水売りから毎日買っていたが後に水道が土間に引かれた。便所は長屋の共同であったか。
 モラエスは神戸時代に蓄財をし、死去後に知られた現在の価格にして1億円以上の預金を持つ資産家であったが、銀行利子で暮らす方針と、鴨長明の方丈記の庵住まいに憧れて、あえて戸建て住宅でなく、庶民に溶け込みやすい長屋にしたのかもしれないが、神戸の広い家を知るコハルには満足できるものではなかった。モラエスの晩年が陋屋に住む貧しく孤独な落ちぶれた老人と見られたのもこんな住居にもあったのかもしれない。
コハルとの生活
 おヨネの姪コハルは、おヨネの病気中に女中として2年間神戸のモラエス家に居住していたので、気心は知れていた。モラエスは徳島隠棲にあたって、コハルの母親ユキにコハルを貰いたいと懇願をし、生活苦にあえいでいたユキはモラエスからの経済的援助をあてにしてコハルをモラエスにやることに同意した。コハルは明治27年(1894)生まれの19歳、モラエスとは40の歳の差があって正式な結婚ではなかった。
 コハルはこのような生活を嫌ってか、幼馴染みの恋人との間に2人の男の子を出産、モラエスを困惑、悲しませ、一時実家に帰したこともあるが、それでも後でコハルを許し最期まで面倒を見てもらうつもりであった。それもコハルの突然の結核の発病、入院、死去で、3年ばかりの短い同居生活で終わり、思惑通りにはいかなかった。
晩年と死去
 コハル死去後、ユキが手伝いに来ていたが、頼り切ることはできず、徐々に彼なりの自活をするようになっていった。
 昼間は著述に、朝夕はおヨネとコハルの墓参を兼ねての散歩が日課であった。
 70歳頃から病気がちになり、73頃からは歩行にも困難をきわめた。神戸に転居療養の熱心な誘いもあったが、誰の世話にもならず自力で徳島で生をまっとうする覚悟を決めていた彼は断っている。
 死の10年前の1919年8月12日付けで長文の遺書をしたため、遺体の処理、葬式、遺産の配分方法らを詳細に記述している。
 昭和4年(1929)7月1日未明、モラエスは自宅で事故死し隣家の大工に発見された。死亡見分の所見では、就寝中、寝付かれず飲酒をし喉の渇きをいやすために水道の水を飲もうとして誤って床から土間に転落、鼻をひどく骨折し死去したものと推定された。
 ポルトガル領事と東京の代理公使がかけつけて、遺骸は2日に生前の望み通りに火葬され、告別式は7月3日に、盛大に斎藤家の菩提寺の安住寺で行われ、コハルの墓に納骨された。遺言書にもとづき執行がなされ、蔵書、版画類は県立光慶図書館に寄贈された。
モラエス旧居跡
モラエス旧居跡 モラエス旧居跡
旧居跡の変遷
 モラエス没後も長屋は借家として残っていたが、昭和20年の徳島空襲で焼失した。
 長屋用地221uは平成9年(1997)に県内の金融機関が購入し、翌年このうち、15uの土地を借りて徳島日本ポルトガル協会とモラエス会などが胸像、旧居跡を示す石碑、解説板を設置してモラエス旧居跡として、市観光協会が管理していた。その後、平成23年(2011)に旧居跡が売却されて一般住宅が建ち、住宅脇に石碑と解説板を設置できるだけの小さな変形三角形状の土地が旧居跡として残された。胸像は設置余地がないために潮音寺へ行く途中にある新町小学校内道路沿いに移設された。
現地説明版
* モラエス旧居跡
『道路の東側の通路のところに、モラエスが17年間居住していた借家がありましたが、昭和20年(1945)の空襲で消失しました。
 ポルトガル人モラエスは、大正5年(1913)公職を退いて神戸から来徳し、福本ヨネの姪、斎藤コハルとともに居住、大正5年(1916)コハル病死後、老齢と病苦に苦しみながら、昭和4年(1929)7月1日死亡するまで、著述と墓参の孤独な生活が、ここで続けられました。』
* ヴェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau de Moraes)
『ヴェンセスラウ・デ・モラエスは安政元年(1854)ポルトガル国リスボンに生まれ、海軍士官となって1888年中国南部マカオに赴任、しばしば公務で日本を訪れ、明治31年公務で日本滞在中、解任され、日本に定住。神戸・大阪領事となって神戸に居住、明治33年(1900)徳島出身の福本ヨネと結婚したが、明治45年(1912)にヨネが病死、大正2年(1913)におヨネの墓ができた機会に、公職を退き永住の決意で7月4日来徳し、伊賀町3丁目の借家で、ヨネの姪コハルとともに居住。コハルも、大正5年(1916)病死し、その後、墓参と著述の日を送り、孤独な生活を続けた。
 昭和4年(1929)7月1日、隣人にモラエスの死亡が発見され、近隣の人で葬儀が営まれ、遺品は、篤志家に買収され、当時の県立図書館に寄贈され、モラエス文庫として保管されたが、昭和20年の空襲で焼失した。
         平成8年7月1日     西富田コミュニティ協議会  』
モラエス胸像
 モラエス旧居跡にあったモラエス胸像は、モラエスが潮音寺の墓参りに歩いた道沿いにあった新町小学校校庭に移設されている。  
モラエス胸像 モラエス胸像
モラエス胸像
胸像裏の説明文
『ヴェンセスラウ・デ・モラエスの終の栖となった旧居跡の保存と、ここ伊賀町の長屋から世界に発信された「徳島の盆踊り」「おヨネとコハル」「日本精神」など数々の労作を称え末長く徳島市民の記憶にとどめるため感謝と親愛の心を込めてこの像を建立する。』
 平成10年。 徳島市、社団法人徳島市観光協会、徳島日本ポルトガル協会、モラエス会、徳島南ロータリークラブ、徳島日葡協会南ロータリー支部、株式会社徳島銀行、徳島日葡協会とくぎん支部』 
モラエス通り> 
モラエス通り モラエス通り
 モラエス旧居前の道は、伊賀町1丁目から4丁目までの直線700mの道はモラエス通りと名づけられている。モラエスが潮音寺への墓参で通った北の瑞巌寺から南の観音寺までの幅4mばかりの道である。
 潮音寺の南、瑞巌寺山門脇のホテル偕楽園の塀に次の解説板が取り付けられてある。
 『この通りをモラエス通りといいます。モラエスはこの通り(伊賀町3丁目)に大正2年(1913)から昭和4年(1929)まで、17年間居住して日本、徳島のことを、海外に紹介しました。昭和50年(1975)西富田公民館は、公民館設立20周年を記念して、モラエスを永遠に忘れえぬため、この通り(伊賀町)をモラエス通りと名づけました。』
モラエスへの個人的思い
 明治、大正の日本を世界に紹介した同じような文筆家でありながら、ハーンは英語で著作をし、2回の結婚をし、54歳で家族に看取られ東京で死去。
 モラエスはポルトガル語で著作をし、正式な結婚をせず3回の同棲をし、孤独のうちに、徳島で75歳で死去。似ているようで異なった生涯を送った。
 コハルの死去時62歳、この時、徳島の生活に見切りをつけて故郷のリスボンへ帰って、正式な結婚や妹夫婦との付き合いで平安を得て、日本に関する著作を行い、たまに墓参で来日するような第二の人生を送ったほうがモラエスのためには良かったとも思えるのだが、日本人として徳島の生活に根を下ろし過ぎた彼には、はなからそういう選択肢はなかったのであろう。65歳時には遺言書で徳島の地に骨を埋める決意を述べている。
(画像と解説文は I・H さんの提供)
人物
伊藤左千夫 緒方洪庵 上野彦馬 井上良馨 板垣退助
大山巌 大久保利通 伊藤博文 青木周弼 ヴォーリズ
芥川龍之介 愛新覚羅溥傑・浩 お龍 大石瀬左衛門 井伊共保
足利義輝 岩崎弥太郎 大隈重信new
亀井勝一郎 クラーク博士 国木田独歩 金田一京助・春彦 幸田露伴
賀茂真淵 金原明善 楠部弥弌 小泉八雲 木戸孝允
黒田清輝 金子みすゞ 久坂玄瑞 桂 太郎 勝 海舟
片岡源五右衛門 釜鳴屋平七 狩野元信 貝塚武男 北原白秋
銭形平次 サトーハチロー 西郷従道 白井鐵造 清水次郎長
西園寺公望 志賀直哉 渋沢栄一 西郷隆盛 東海林太郎
島木赤彦 坂本龍馬 ジョン万次郎 佐藤春夫 下田歌子
佐藤一斎 下山順一郎 鈴木三重吉
徳富蘆花 徳田秋声 滝沢馬琴 谷崎潤一郎 武野紹鴎
高蛹虫沽Y 豊田佐吉 竹久夢二 高山彦九郎 徳川吉宗
高杉晋作 高杉晋作 療養の地 東郷平八郎 天璋院・篤姫 寅さん
玉木文之進 坪井九右衛門 田中義一 富岡鐵齋 田沼意次
新渡戸稲造 野口英世 新島襄 永井荷風 西田幾多郎
西周 永井隆 中島伊勢 中島 登
函館四天王 堀部安兵衛 二葉亭四迷 弘田龍太郎 林芙美子
文之和尚 本間精一郎 日野熊蔵
御木本幸吉 円山応挙 真下飛泉 森鴎外@ 森鴎外A
村田新八 正岡子規 森 寛斎 三善清行 宮沢賢治
モラエス 三好 学
吉田松陰 吉田稔麿 山縣有朋 山鹿素行 山内千代
ヤン・ヨーステン
蓮如上人 頼山陽 両津勘吉
渡邊蒿蔵
 
石川啄木 新婚の家 蓋平館別荘跡 函館居住地跡 赤心館跡
喜之床旧跡
坪内逍遙 誕生地 旧居跡
徳川家康 徳川家康(浜松) 徳川家康(静岡)
夏目漱石 誕生地 住宅 旧居跡
樋口一葉 樋口一葉 伊勢屋質店

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