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正岡子規 子規堂   愛媛県松山市
子規堂
子規堂 子規堂
子規堂>(愛媛県史跡)
 正宗寺境内の子規堂は、もと松山市湊町4丁目1番地にあった子規の旧居の一部を移して建てたものに始まる。正岡子規(1867〜1902)は、温泉郡藤原新町(現在の松山市花園町)で生まれたが、まもなく湊町4丁目に転居。17歳で上京するまでここに住んでいた。
 大正15年(1926)、この旧宅の用材を使い、柳原極堂の記憶に基づいて、最初の子規堂が建てられた。その後、昭和8年(1933)の火災、昭和20年(1945)の松山空襲によって2回焼失した。
 現在の建物は、昭和21年(1946)の再建である。室内には、子規の遺墨や遺品が数多く展示されている。また併せて、虚子・漱石・鳴雪等有名俳人の貴重な遺墨も数多く展示されている。

 笹啼(ささなき)が
   初音になりし頃のこと 高浜虚子


 俳誌「ほとヽぎす」は、明治30年(1897)柳原極堂が子規の支援によって松山で創刊し、20号まで発行。その後高浜虚子が継承したもので、昭和21年(1946)11月「ホトトギス」600号記念会を当寺で催し、昭和24年(1949)10月24日記念句碑建立となった。

子規と野球の碑
 正岡子規は、わが国野球草創期に選手として活躍、明治20年代はじめて松山の地にこれを伝えた。最も早くベースボールの技術、規則を訳述解説し、その妙味を強調してひろく世に推奨「野球」の名付け親と称される。また短歌、俳句、小説など文学の題材に初めてこれを取り入れた。実に子規は球界の先駆者であり、普及振興の功労者である。
  打ちはづす球
   キャチャーの手に在りて
    ベースを人の行きがてにする


  今やかの三つのベースに人満ちて
   そゞろの胸の打ち騒ぐかな


 ベースボールの歌(九首のうちの二首)は新聞「日本」に明治31年(1898)5月24日発表。若き日の子規はスポーツマンで野球に熱中して「ベースボールほど愉快にみちたる戦争は他になかるべし」と書き残している。(明治21年(1888)「筆任せ」)
子規堂・勉強部屋 子規堂
子規の勉強部屋>(上左画像)
 この三畳の小部屋は、子規が松山中学に入ってから増築して貰った勉強部屋で、天井もない粗末なもの。この部屋で作った文章には櫻亭仙人(13歳)老櫻漁夫(14歳)香雲散人(15歳)等と皆櫻に因んだ雅号を用いているのは、庭の桜の老樹の影響と言う。「子規」という号は明治22年(1889)数え年23歳の時につけたもの。
居間(六畳)>(上右画像)
 玄関わきの三畳の部屋が出来るまで、子規はこの窓際に机を置いて、勉強をしたいたと言う。
子規堂内部 子規堂内部
子規堂内部の様子
 正岡子規、本名正岡常規(つねのり)。慶応3年9月17日松山市に生まれる。明治35年(1902)9月19日36歳で死去。子規17歳、我が国に入って来たベースボールを幼名から升(のぼる)と野の球とをかけ合わせて野球と云う言葉をつくったと云われる。やがて松山の地に初めて野球を伝えた。明治25年(1892)日本新聞社の社員となる。日清戦争に従軍記者で活躍、明治28年(1895)東京時代の学友であった夏目漱石が松山中学の教壇にたっていた。
 漱石の下宿、愚陀仏庵に子規が同居し、この時松山の新派俳句は興ったと云われている。新聞「日本」の俳句雑誌、「ホトトギス」等によって子規は日本新派俳句を全国に普及させた。また、叙事文、写生文を提唱し当時の小説家達に影響を与えた。子規堂は文学なかまであった正宗寺住職仏海禅師が業績を記念して子規が17歳で上京するまでの住居を、寺の中に残した。
正岡氏累代の墓 子規埋髪塔
子規埋髪塔
 子規は明治35年(1902)9月19日死去。10月28日ここで遺髪埋葬式と追悼会が行われ、三周忌にこの髪塔が建立された正宗寺の住職仏海が遺髪を埋めて建立したもので、拝石に彫られた子規像と文字は、子規と親交のあった下村為山による。昭和23年(1948)10月28日、県の「記念物・史跡」に指定された。

 子規居士と 鳴雪翁の 居たまへる
    伊予の 御寺の 秋の夕暮    与謝野晶子
坊っちゃん列車 坊っちゃん列車
坊ちゃん列車の客車
 子規堂前の「坊っちゃん列車」は漱石の小説「坊っちゃん」でも有名である。
 この箱車は、いまから80年ほど前、伊豫鉄道株式会社が創業当初の明治21年(1888)10月28日に、松山ー三津間(料金3銭5厘)に開通した我国最初の軽便鉄道の客車です。
 夏目漱石の小説、坊っちゃんでは「マッチ箱のような汽車だ」といわれ、以来、坊っちゃん列車の愛称で全国に知られている(この列車の機関車は梅津寺遊園地に展示してある)何しろ米が一升4銭5厘という時代に、ドイツから組み立てたまま木箱に詰めて機関車と共に運ばれてきたものですが、あれから50年間、雨の日も風の日も走り続け、ある時は強い風に吹き倒されたり、又ある時には牛に衝突して脱線した。
 枯野原汽車に化けたる狸あり  漱石
 等々、いま考えると嘘のような本当の逸話がたくさんあります。文化はレールと共に伸びるといわれるが、子規も漱石もこの客車で道後温泉へ通ったものと思うと、気が遠くなるような郷愁と時代の流れを感じさせられる。
「坊っちゃん」を書いた人 夏目漱石
  停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない、道理で切符が安いと思った。たった三銭である。(小説「坊っちゃん」より)
子規邸跡 子規邸跡
 正岡子規生い立ちの家の石碑が、道路の真ん中(中央分離帯に当たる所)にある。
子規誕生邸跡 子規誕生邸跡
子規誕生地
 慶応3年(1867)9月17日、この付近(旧藤原新丁)で生まれた。上京して俳句の道に進み、革新的歌論や写生文を唱導して活躍した。カリエスのため7年間病床生活を送り東京根岸の子規庵で36歳の短い生涯を閉じた。
松山出身の俳人
名前 誕生 死去
 正岡子規  慶応 3年 9月17日  明治35年 9月19日
 柳原極堂  慶応 3年 2月11日  昭和32年10月 7日
 高浜虚子  明治 7年 2月22日  昭和34年 4月 8日
 内藤鳴雪  弘化 4年 4月15日  大正15年 2月20日
 河東碧梧桐  明治 6年 2月26日  昭和12年 2月 1日
 石田波郷  大正 2年 3月18日  昭和44年11月21日
 中村草田男  明治34年 7月24日  昭和58年 8月 5日

東北
石川啄木
関東
国木田独歩 堀部安兵衛 金田一京助・春彦 銭形平次 夏目漱石
二葉亭四迷 徳富蘆花 徳田秋声 樋口一葉
中部
徳川家康 高蛹虫沽Y 白井鐵造 御木本幸吉new
近畿
緒方洪庵 佐久間象山 円山応挙 高山彦九郎 宮本武蔵
竹久夢二
中国
小泉八雲 西田幾太郎 林芙美子 志賀直哉 西 周
四国
正岡子規

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