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<掘立柱建物>
掘立柱建物は地面に柱穴を掘り、柱を立てたもので、地面に炉や床などの跡が見つからないことから、高床建物であったと考えられている。柱は約35pの倍数で配置されている。 |
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<竪穴住居の復元>
竪穴住居は地面を掘って床を作り、柱を立て、屋根をかけている。縄文時代中期(約4500年前)の竪穴住居を復元しており、屋根は発掘調査の結果や民族例を参考に、茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類で復元している。時代によって、平面形、柱の配置、炉の位置や構造に違いが見られる。 |
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<子どもの墓>
子どもの遺体は、土器に入れて埋葬した。棺に使われた土器は、丸い穴があけられたり、口や底が壊されており、煮炊きに使用する土器とは区別されていた。中からはこぶし大の丸い石が出土した例もある。 |
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<北盛土>
盛土は竪穴住居や穴などを掘ったときの土やゴミ、焼けた土や炭、石器や壊れた土器などが同じ場所に長期間継続して棄てられており、小山のように盛り上がっている。ここでは発掘調査された当時のまま展示している。
一面に敷き詰められたような土器は縄文時代中期(約4500年前)のものです。展示している部分はほんの一部だが、盛土ではこのような状態で何層にも重なって拡がっている。 |
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<北の谷(低湿地)>上左画像
北の谷は、縄文時代前期(約5500〜5000年前)にはゴミ捨て場として利用されていた。水分が豊富なため、通常残らない動物や魚の骨、種子、漆器や木製品、編み物、寄生虫の卵などの有機質の遺物が良好な状態で出土しており、当時の環境や食生活などがわかった。また、土留め用の杭列が見つかっている。
<大人の墓(土坑墓)>上右画像
大人は、地面に掘られた穴(土坑墓)に埋葬された。土坑墓は道路の両脇に向かい合うように列状に並んでいる。墓の中からは、副葬品として石器やヒスイ製のペンダントが出土した例もある。 |
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<南盛土>
盛土は竪穴住居や穴などを掘ったときの土やゴミ、焼けた土や炭、石器や壊れた土器などが同じ場所に長期間継続して棄てられ、小山のように盛り上がっており、現在、北盛土・南盛土・西盛土の3カ所が確認されている。北盛土や南盛土では土偶が多く見つかっている。 |
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<環状配石墓と道路跡>
環状配石墓は大人の墓のまわりを石で囲んだもので、大きさは直径約4mです。南側に延びる道路跡に沿った斜面に並列に作られている。
道路跡は地面を削って作られていて、幅約7〜12mあり、集落の東側へ約420mと南側へ約370m延びている。現在の園路は道路跡の上に設定されている。 |