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<伊場遺跡発掘の経過>
昭和24年(1949)、浜松市立西部中学校の生徒が、アメリカ軍の艦砲射撃でできた穴の中から土器片を拾い、学校に届けた。担任の先生は穴の近くを試掘し、「ひれ付土器」を掘り当てた。報告を聞いた国学院大学考古学資料室は、昭和24年から翌年にかけて、約30日間発掘調査を行った。その結果、静岡市登呂遺跡に匹敵する弥生時代農業集落であることが確認された。
その後、国鉄(JR)東海道線高架化事業により、付近一帯が電車基地になることから、浜松市教育委員会は昭和43年(1968)から昭和56年(1981)にかけて発掘調査を行った。こうして得た数万点の資料を歴史学習にいかすため、昭和50年(1975)に資料館が開館した。
<伊場遺跡の概要>
伊場遺跡は、三方原台地南端の海食崖を北側にひかえた低地帯にあり、古い時代の砂州を基盤にして営まれた遺跡です。大きさは東西300m余、南北180mと推定され、縄文時代から鎌倉時代まで、継続的に集落が営まれ、奈良時代を中心とした古代には、役所となっていた。
<古墳時代の復元住居>
約1500年前には、この付近に竪穴住居が建ち並ぶむらがあった。床の中央に炉がある住居と、北側の壁付近にかまどがある住居があって、ちょうどこの時代に、浜松付近にかまどが普及し始めたことを示している。
発掘調査では、住居の屋根や壁のようすはわからなかった。ここでは、埴輪の家を参考に復元してみた。屋根の形や材質は実際には異なっていた可能性もある。 |
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<弥生時代の環濠>
約1800年前の伊場のむらを囲んでいた環濠(かんごう)の一部です。ここから南に直径120mにわたり、3重の環濠が掘られていた。濠の長さは約400mあり、弥生時代において、二重以上の濠で囲まれたむらとしては、日本では最も東にある。
弥生時代には各地で戦争があり、伊場のむらでも敵からむらを守るために濠(ほり)をめぐらしたものと思われる。環濠には、大量の弥生土器や、木の鋤(すき)や鍬(くわ)が捨てられていた。日本最古の木のよろい(短甲状木製品)も、ここから発見されている。
環濠の中から無傷の土器がたくさん見つかったのは、戦いに負けたため、使える物まで捨てられたためと考えられる。2世紀に栄えた伊場のむらは、3世紀後半になると、細々と営まれる程度の小さなむらになっていた。 |
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<大溝(おおみぞ・古代の小川の跡)>
約1500年前から1000年まで、ここには小川が流れていた。この小川は、公園北側の団地付近から、公園南の線路の方向に流れていた。ここでは、その一部を発掘当時のまま保存している。
大溝の中からは、土器や木製品のほか貝殻などの食べかす、まじないの道具、さらには、この付近に、古代の郡の役所があったことを示す木簡(墨で字を書いた木の札)が大量に発見されて全国的に注目された。 |
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<掘立柱建物群の跡>
1300年前頃から、大溝の周辺に掘立柱の建物が立ち並ぶようになった。地面に穴を掘って柱を立てた建物を掘立柱建物という。発掘すると、柱を立てた穴や時には柱の根元が見つかる。この一角では、そうした柱穴や柱根を埋め戻し、その直上に擬木の柱を立てて、掘り出された時の状況を再現した。これらの建物は当時の役所に関連したもので平安時代の中頃(約1000年前)まで、建て替えが行われたようである。
<家形土器>
日本最古の家形土器、弥生時代 2世紀。
浜松市森田町の鳥居松遺跡(伊場遺跡の近く)から出土した、弥生時代後期(約1800年前)の土器です。脚の上に四角な建物が載っている。屋根は本を開いて伏せたような切妻式です。壁には粘土ひもで柱と床が表現されていることから、柱と柱の間が2間×5間になる高床式の大型建物と思われる。このような建物は、静岡市登呂遺跡の高床式倉庫に似ている。屋根を支える柱があるのは、伊勢神宮の本殿にも似ている。
この土器は、当時の水田のあぜ道から見つかっているので、豊作を祈る「まつり」に使われたと考えられる。 |
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<復元された掘立柱の建物>
柱を地面に直接埋めて固定した建物で、外まわりだけに柱のある建物は土間造り、建物の内側にも柱が発見されたものは、高床式の倉庫と想像されている。土間造りの建物の大きさはまちまちで、大きいものは役所、小さいものは物置などだと推定される。高床倉庫には、ひとびとから取り立てた米や布などの税をいれてあったのかもしれません。 |
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<古代の役所の跡>
伊場遺跡の西の城山遺跡、北の浜松西高校の崖下にかけての広い範囲で、約1300年から1000年前の掘立柱の建物跡がたくさん見つかった。遺跡の中心は公園よりも北西と推定されている。
大溝(おおみぞ。約1500〜1000年前の小川の一部を保存。当時は遠州灘につながっており、古代の郡役所の荷物を運ぶことにも利用されていた)の両岸から、古墳時代の住居と異なる掘立柱建物が30棟分ほど発見された。
また、大溝の中などから、木簡・墨書土器という文字の書かれた遺物が500点ほど出土した。主なものに「布知厨」「郡鎰取」「栗原驛長」「辛巳年正月生十日柴江五十戸人」「延長二年」「浜津郷」「竹田郷長里正等大郡」などがある。布知(ふち)とは遠江国敷智郡の敷智(ふち)にあたり、厨(くりや)は台所のことです。郡鎰取(こおりのかぎとり)は郡家の倉の鍵を管理する人のことを指す。辛巳年・延長二年は、それぞれ681年、924年に当たる。このことから伊場遺跡には、7世紀から10世紀にかけての間、郡家や栗原驛家といった地方の役所が置かれていた。
これらの建物は、奈良時代から平安時代にかけての、遠江国敷智(ふち)郡(現浜松市西半部)の役所とその周辺の施設と考えられている。
<地方の役所の仕事>
伊場木簡に「若倭部五百国布二丈八尺縹((はなだ)」と書かれたものがある。税として収められた布に付けられていたものです。役所では布を検査した後、納税者の名前などを、布に直接書き直して都へ送った。このように役所では税を受け取り都へ送る手続きや、戸籍・倉の管理などが行われた。(伊場遺跡の説明より) |