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咸臨丸は、安政4年(1857)にオランダのキンデルダイクで産声をあげ、 幕府海軍創世期の主力艦として配備された。開国の嵐が吹きすさぶ中、安政7年(1860)、木村摂津守喜毅、
勝海舟、 福沢諭吉、 ジョン万次郎など百余名を乗せ、 日米修好通商条約批准書交換目的で渡米する幕府遣米使節護衛目的の随伴艦として太平洋を渡る偉業をなし遂げるなど、幕末の動乱期に日本近代化の歴史的象徴として活躍した。
文久3年(1863)からは、咸臨丸は品川・横浜間の要人の輸送や伝習生の訓練に使用されていたが、その後蒸気機関を撤去し帆走軍艦となり、数年後には運送船となった。
慶応4年(1868)戊辰戦争が始まると、幕府の方針に承服しない榎本武揚は8隻の艦船を率いて品川沖から脱走、蝦夷(北海道) へ向かう。咸臨丸もその1隻だったが、観音崎で座礁、
その後離礁したものの、房総沖で暴風雨にあって漂流するにいたり、清水港に避難した。しかし新政府軍に知られ、攻撃をうけて多数の死傷者を出し、船は拿捕された。 |
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戊辰戦争後、 咸臨丸は明治政府の輸送船として開拓史の物資や官史の搬送などにあたった。戊辰戦争に敗れて北海道移住を余儀なくされた白石藩片倉小十郎家臣団401名を乗せて仙台の寒風沢を出航した咸臨丸は、
箱館経由で小樽に向かう途中、明治4年(1841)9月20日、木古内町サラキ岬沖で座礁。 現地 (泉沢) の人々の懸命な救助もあり、乗船者は一人の犠牲者もなく避難し、その数日後に破船沈没した。 |
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怒濤の幕末維新を背景に14年の栄光と悲劇の足跡を残した咸臨丸は、今もここサラキ岬沖に静かに眠っている。 |
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<咸臨丸主要データ>
推進 |
スクリュー・帆走 |
総排水量 |
625 トン |
長さ |
49.5m |
幅 |
7.2m |
馬力 |
100馬力 |
速力 |
6ノット |
武装 |
30ポンドカロネード砲(8門)・12ポンド長カノン砲(4門) |
木造機帆コルベット
<旧赤松家記念館>
近代日本の造船技術の先駆者となった海軍中将男爵、赤松則良の邸宅跡に建つ記念館。咸臨丸乗組員であり、幕末期のオランダ留学経験を持つ赤松則良の経歴から、記念館には、勝海舟、榎本武揚、大鳥圭介に関する幕末から明治期にかけての資料や文化財が展示、保存されている。 |