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<名前の由来>
一般的には 「丸山」という通称で親しまれています。 「土器塚」は、北西600mにある京見塚古墳などを中心とした 「戒成皇子伝説」の中で、
皇子やその従者が捨てた土器が塚になったと伝えられることから、その名前がある。
<発掘調査の成果>
平成12年度の発掘調査で、直径36m、高さ5mの円墳であることがわかった。また 周囲には幅7m、深さ1mほどの堀がめぐっていたこともわかった。
<古墳の造られ方>
高さ5mのうち、下部の1/3は地山を削り出したもので、残りの2/3は盛った土で、盛土のうち下部1/3は薄い土層を幾重にも積み重ねたもの、上部1/3は黒い土を一気に積んだものと推定される。
<中心部の状況>
遺体を葬った場所は、長さ7〜8m、幅1mの穴に棺を納めたものと推定され、東西方向に造られていた。中のようすはわかっていないが、周辺から管玉1点とよろいの破片が見つかっている。
<土器塚古墳の年代と葬られた人物>
土器塚古墳は、見つかったよろいの形などから、5世紀前半(古墳時代中期)に造られた古墳であることわかった。また、土器塚古墳の北西には京見塚古墳があり、磐田市南西部の有力氏族の古墳群と考えられる。これらは、この地に残る戒成(かいじょう)皇子伝説などから、5世紀頃に遠江国造であった土師氏一族の墳墓ではなかったかと思われる。
土器塚古墳は、所有者であった神谷文七様のご厚志により、 平成14年に古墳墳丘部分が磐田市に寄贈された。 |
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<戒成(海上) 皇子伝説>
桓武天皇の第4皇子に戒成皇子という人がいて、この地に住んでいたという伝説があり、「京見塚」 「王屋敷」など、伝説に関わる地名も残っています。桓武天皇には同名の皇子はいませんが、天皇の叔父に海上王、兄に開成がいたといわれ、遠江土師氏の伝える応神天皇の皇子・大山守皇子(おやまもりのみこと)その子津布良古王(つぶらこおう)伝承
(土方家系図) とが統合されたものと思われる。 |
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