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京見塚古墳周辺には、13基の小規模な古墳時代後期の古墳がある。6世紀後半から100年くらいの間に、一定の範囲にまとまって造られた古墳で、このようなまとまりを群集墳と呼んでいる。
北側の古墳は調査された姿で、 南側の古墳は造られた当時の姿で復元されている。 古墳の外形と、その中の構造が見比べられる。北側の古墳は造られた当時はもう少し高く、石室の石積みもあと2〜3段あったと考えられる。天井は残っていないが、普通は両壁にまたがる大きな石を置いている。このような構造をもった石室を横穴式石室という。この石室は入口を開けると何度も埋葬を行うことができる構造であり、南側の古墳では発掘調査によって追葬の跡がきれいに見つかっている。 |
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<方形周溝墓>
低い方形の盛土の四辺を溝によって区切られた弥生時代の代表的な墓で、眼下に広がる天竜川沖積地で米作りを営んだ集落の有力な指導者を埋葬した墓です。台地の縁に南北に5基並んで見つかった墓は、それぞれ区切りの溝を共有し、連結している。このうち3基を調査したが、いずれも遺体を埋葬した主体部は見つかっていない。溝の中から出土した壺形土器の形から、弥生時代中期後半、今から約1,900年前に造られたものと考えられる。古墳時代になると、この3基の方形周溝墓のうち南と北の方形周溝墓の上には古墳が築かれた。 |
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