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中山道において、中津川宿は、江戸から45番目の宿場です。中山道の中でも比較的大きな宿場であり、寛政年間(1789-1800)には、町の長さ10町7間(約1..0km)、家数175軒、人口は1,230人となった。
中津川宿の町筋は、江戸方から順に淀川町、新町、本町、横町、下町と続き、宿場の中枢を担う本町には、本陣と脇本陣があった。この本町から横町、下町にかけては、旅籠屋や馬宿、茶屋、食べ物屋などが並び、人馬の継立と休憩、宿泊に寄与していた。一方、江戸方の淀川町や新町には商家を中心とする町並みが広がっていた。現在でも、枡形のある横町付近には、古い伝統
を受け継いだ宿場町の面影が残っている。
<中津川本陣>
本陣の入口には五軒続きの長屋が建ち、その中央の一軒分が門となっていた。門右手の一軒分は問屋場で、門をくぐると表庭があり、その奥に建坪283坪の本陣があった。表門の正面は内玄関と縁三間半の荷置場があった。その奥が台所、貴人一行自らが調理した所や御膳所があった。その奥が勝手向きで、勝手の諸施設や多くの部屋もあった。
表庭の左手に中門があり、その左に番所も置かれ、庭は高塀で囲まれていた。玄関の奥には玄関の間、ついで三の間・次の間・中の間・上段の間へと続いた。上段の間は九畳で、床の間を設け、備後表で大紋縁付きの上畳が二畳置かれていた。上段の間には湯殿、上り場、雪隠などがついていた。裏も庭となり高塀で囲われ、御退路の門戸があり、非常の時は近くの大泉寺へ避難できた。 |
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<中津川宿・脇本陣>
江戸時代から実際に使用されてきた「上段の間」(床の間、書院棚付き畳8畳)と「御手水所」(便所)を復元整備した。脇本陣の一部のみの再現整備だが、建具、柱、欄間等を再利用している。 |
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<曽我家住宅>
屋根に取り付けられた「卯建」があるこの建物は。江戸時代は中津川村の庄屋を勤めた肥田家が所持し、構造体の部分は江戸中期にさかのぼると想定される。
肥田家は代々「九郎兵衛」と名乗り、屋号は田丸屋といい、島崎藤村の『夜明け前』には小野三郎兵衛として登場して いる。
江戸の後期から旅籠(旅館)を経営し、明治8年(1893)には、恵那山を登ったウェストンが宿泊されている。
明治30年代になると曽我家がこの建物を譲り受け、中津川で最初に開業した医院となった。
以後、曽我家が大切に建物の保存管 理に努められ、現在市有形文化財(建造物)に指定されている。 |
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<大泉寺跡と御退道>
この坂を下った突き当たりに、大泉寺があった。大泉寺はもともと恵下にあった瑞應寺が始まりである。境内は東西19間、南北33間で、正門の礎石が今も残っている。
大泉寺は本陣に休泊する大名などの避難所でもあった。火災や敵襲などの場合には、本陣の裏手にある御退道から小路を通って避難するようになっていた。
文久2年(1862)の落雷によって堂宇すべてが焼失し、明治6年(1873)になって北野大西に移された。跡地には今も宝篋印塔や、五輪塔が残り、市岡家、岩井家など中津川の有力宿役人の墓石がある。 |
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<町並みと桝形>
中津川宿は江戸日本橋から数えて45番目の宿駅で、本陣、脇本陣、庄屋、二軒の問屋場が置かれていた。武家は常に軍旅にあるとの考えから、主人が休泊するところを本陣といい、家臣が宿泊する場を下宿といった。
本陣は、中津川宿でも最も高い場所に置かれ、水害などの災害にあうことはなかった。大名などが休泊する場合は、常に敵の攻撃に対する防御や退却方法が考えられており、自身番も置かれていた。横町から下町にかけて町角を直角に曲がる桝形は、人為的に造られたもので、本陣や脇本陣のある宿場の中心部が直線的に見通すことができないように造られていた。 |
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<十八屋(じゅうはちや 間家)>
江戸中期に園田大学が建てたと伝えられおり、上がり框や天井の梁などは当時そのままである。屋号を十八屋山十といい、中津川の豪商であった間杢右衛門家の流れをくむ間武右衛門が移り住み、旅籠を営んでいた。当時、旅籠は宿役人しか営むことができなかったと記録されている。
元治元年(1864)11月水戸天狗党が中津川を通行した際、和田峠の戦で負傷した若き武士を部屋に匿った、その後、武士は病没しが、当家にはその遺品が今も残されている。和宮の下向の時には、京都御供が宿泊しており、その時の記録には当家の間取りなどが克明に調べられている。 |
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<白木屋(横井家)>
江戸時代の面影を如実に残す建物。この家は、山科屋遠山林蔵の依頼で、当家の先祖である宮大工の横井弥左衛門(藤原朝臣真行)が天保13年(1842)に建てたものである。
中二階に四畳ほどの隠し部屋が今も残されている。部屋に入る梯子を取り外すと、そこに部屋のあることが外からは全く分からない。遠山家は明治末頃まで住んでいたが、現在は駅前に移住し、うなぎ屋「山科」を営んでいる。
その後、家屋は横井家に渡り、現在は建物の一部を「中山道お休み処 白木屋」として一般開放しており、中山道を訪れる人々の憩いの場や、住民のまちづくりの活動の拠点となっている。 |
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<旧中川家(杉本屋)>
中津川村や子野村の庄屋であった中川萬兵衛の屋敷の一部。中川家の屋敷は、ここより東側一帯にあり、広壮な屋敷であったものと思われる。この屋敷は南に向かって西生寺下の土蔵がある辺りまで建っていた。現在東西に延びる旧清水町の通りはなく、街道を直角に曲がる桝形という道のつくりになっていた。歌舞伎で絵で著名な中川とも画伯は、この中川家の出である。
明治の代になって原作吉が購入し、呉服商を営んでいたが、大正年間には薪炭、荒物商となり、現在に至っている。昭和30年代の初め頃までは江戸時代の面影を残す帳場があり、これを舞台に映画「青い山脈」のロケが行われた。 |
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<卯建のある家>
この二軒は長屋になっており、中川家の一部であった。卯建は隣家からの類焼を避けるために設けられた防火壁で、隣家との境に高い壁をつくり、その上端に小屋根を置いた。これによって隣家からの火事をある程度防ぐことができたが、卯建を設けるためには多額の費用がかかった。「うだつがあがらない」という慣用句は、裕福な家でなければ卯建を上げることができなかったことから転じたものである。
卯建は中津川でも、ここ横町通りの数軒しか見られなくなり、宿場町の面影を今に伝える貴重な財産である。この二軒のうち南側にある卯建は、前田青邨の絵にも描かれた。 |
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上画像は、はざま酒造の建物である。現在の家々は新しいが、かつての様子は下記の通りである。
<中津川宿の家々とにぎわい>
中津川宿の家々はすべて板葺きで、屋根には石がのっていた。 当時の中津川宿の様子を記した「壬戍紀行」(太田蜀山人記)によると、次のように記している。
「駅舎のさきにぎはゝし すべて此わたりより家居のさまよのつねならず 屋の上には大きなる石をあげて屋ね板をおさふ寒さ甚しければ瓦を用ひがたく 壁の土もいて落つるにや板をもてかこめり」とあって、余りの凍みに瓦が割れてしまうことから、すべて板屋根であった、という。本陣とて例外ではなかった。
また、寛政年間(1800年頃)に記された「濃州徇行記」によると「是は豊穣なる処にて商家多く町並み作りよし」という街並みで「三八の日に市立て」とあってこの地方の商業の中心地であった。 |
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<中山道本道>
津島神社の小さな祠の南側を、真っ直ぐ西へ、中津川に向かってのびているのが現在の道であるが、かつての中山道はこの小祠の北を、急な坂を下って中津川の河原へ出ていた。現在は行き止まりになっていて、通り抜けはできない。
この坂を下る辺りの道幅が狭いのは桝形の名残である。桝形に入る手前の道の両側に石を積み、道幅を規制して一度に大人数が通れない様に作られたところを桝形見附とし、番人を置いた。桝形見附の脇には、宿場の中へ悪いものや病気が入ってこないように、「おたてふ様」といわれる牛頭天皇(津島神社)の祠を祀っていた。
<下町かいわい>
下町は、かつて中津川宿の西口の玄関口であった。往時の姿はほとんど留めていないものの、このあたりには、下町から旧・川上川(中津川)までを繋ぐ中山道の道筋が存在していたことが分かっている。時の道中奉行により、文化3年(1806)に完成した「分間延絵図」には描かれていないものの、かつてこのあたりにも高札場があったと言い伝えられている。 |
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<恵那神社への道標>
道角にある石の道標は恵那神社への道しるべで、慶應元年(1865)に建てられたもの。恵那神社へ向かう道を川上道(かおれ道)といい、江戸時代は細い野道であった。当時は横清水町はなく、このあたりはには中川家の屋敷があった。
この先を南へ向かった先の右手側には稲荷神社がある。この辺り一帯には、中津川村を治めていた山村氏の代官屋敷があった。稲荷神社はその屋敷の西端にあったと考えられる。
江戸時代の記録を見ると恵那山登山のものが多く残されており、恵那神社の祭典の時はもちろん、雨乞いのために登山し祈願していた。 |
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<秋葉神社>
中湯川宿では、街道の中央に用水が通っており、その角に当たる道の真ん中に秋葉神社の祠が祀られていた。秋葉神社は火伏せの神様で、文化年間に描かれた「中山道分間延絵図」の中津川宿を見ると、本陣のすぐそばに秋葉様が祀られているのがわかる。
当時は料理や暖房も全て薪や炭を使用しており、家屋も木材や紙で作られていたため、火災は最も恐ろしいものの一つであった。そのため、幕府から火の用心についての注意も多かった。
中津川では秋葉講と呼ばれる幾つかの集まりが作られ、毎年旅費を貯めて、遠州(静岡県)にある秋葉神社(静岡県浜松市春野町)の本社へ代参を行っていた。 |
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中津川宿は、江戸日本橋を出発し板橋宿から数えて45番目の宿駅で、中山道の中でも木曽谷の入口にあたる主要な宿場であった。このため幕府役人、諸大名、文人墨客も多く宿泊し、中津川の文化形成に影響を与えたとされる。
中山道は「姫街道」とも呼ばれ、姫宮の通行も多く、楽宮(さざのみや)、寿明宮(すめのみや)、和宮(かずのみや)といった姫宮が中津川宿に宿泊した。
中津川宿には身分の高い人の宿泊施設である本陣、脇本陣など多くの民家、商家が立ち並んでいた。本町部分には、火災に備えて街道の中心を用水路が走っていた。 |
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当時の書物には、「是は豊饒なる処にて商家多く町並み屋作りよし。まづ穀物、塩、味噌、溜(たまり)、酒、小間物、呉服物、古手、木綿、紙類。其外桧笠、篠にて編みたる箱類をひさぐ。又三八の日に市立て苗木領の諸村より筵(むしろ)、紙、楮(こうぞ)、木綿の類を持出ると云」と記され、宿のにぎわいを伝えている。
このほか島崎藤村の歴史小説「夜明け前」にも、活気ある中津川宿をうかがい知ることができる。 |