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太田宿は、江戸日本橋からおよそ99里(約385q)の位置にあり、伏見宿との間には木曽川が流れており、交通の要衝として栄えた。町並みは東から上町・中町・下町と大きく分かれ、19世紀中頃の規模は東西に6町14間(約673m)あり、宿内戸数が118戸の規模だった。この宿場に本陣と脇本陣が中町にそれぞれ一軒あり、旅籠は20軒、高札場は下町にあった。戸数は118軒で505人(男性259人、女性246人)が住んでいた。宿高1939石で、多くの人々は農・商を兼ねて生活をしていた。
この宿場町には、今も残る江戸時代の面影を残すとともに、次の時代に向けてその姿を連綿と受け継いでいる。 |
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街道筋の家屋には卯建も見ることが出来る。宿場の繁栄を偲ぶことができる。 |
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<吉田家住宅(旧小松屋)>
吉田家は江戸時代には伊勢参りの旅籠を、大正時代から戦前にかけては煙草の元売りを営んでいた。屋号は「小松屋」。主屋は江戸時代末期の建築とされている。
基本的には町屋建築の伝統的な技法で、現在の太田宿の町屋でも最も整った外観を示す建物です。また、現在の屋根は瓦葺きだが、当初の母屋と見なされる材も現存し、それらの遺構から当初は板葺きであったと考えられている。明治時代中頃に2階部分の改造がなされ、大正時代の煙草元売りの開業に際して店先が改造された。
吉田家は空き家になっていたこともあり、家屋全体に現代生活用の改造の手がほとんどは入っていない。明治時代以降再三改修されているが、近世の町家を偲ばせる重要な建物といえる。 |
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<脇本陣(林家住宅)>
旧太田脇本陣林家住宅は明和6年(1769)に建築された主屋と天保2年(1831)に建築された表門と袖塀、それに裏の二階の土蔵から成っている。
江戸時代に太田宿は、中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と脇本陣が各一軒あり、林家は脇本陣としての役目のほか太田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達をつとめた旧家である。
この建物を見ると主屋の両端の妻に卯建(うだつ)が建ちひときわ目をひくが、これは防火壁の役目を果たすと同時に、脇本陣の権威を象徴するものである。又、この建物は中山道において脇本陣としての遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定された。 |
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<本陣門>
旧太田宿の中心であった旧本陣は、宿場の中町の現在いちにあった。明治時代になると旧本陣には太田町役場 がおかれ、町の中心的な存在だった。現在、旧本陣の面影はないが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。
「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861)仁孝天皇の皇女和宮(孝明天皇の異母妹)が14代将軍徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。このときは、旧中山道中の家並なども新築・修繕されたといわれている。
この門は、一間の薬医門 (本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われている。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年(2002)10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理を行った。 |
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<本陣東門>
この門は江戸時代に旧太田宿本陣の東門として造られたものである。大正時代頃、西福寺に移築された。その後、西福寺の山門が新しくされるのを機に、平成12年(2000)に解体された。
一間の棟門で、柱を棟まで立ち上げ冠木上に立つ中備えの束とで棟木を支えている。柱より腕木を梁行に出し、母屋桁を受けている。軒は一軒で疎垂木に照りはない。簡素な造りで旧本陣の通用門だったその由来をよく示している。扉は昭和50年(1975)に新しくされているが、八双などの金具を含めて全体としてまとまっている。 |
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<高札場跡と郡上街道追分>
高札は、法度・禁令、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げた板の札です。一般の人々に知らせる目的で立てられた。弘化2年(1845)の「加茂郡太田村家並絵図」には、下町の西福寺入口付近に高札場が描かれている。『濃州徇行記』には「毒薬、親子、火付、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」が書かれた高札と船高札があったとされる。また、ここは郡上へ向かう「郡上街道」との追分でもあった。
石の道標は明治26年(1893)に名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしている。 |
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<枡形>
道が直角に続けて二度曲がるのを枡形という。宿場の入口に設けられ、本陣や脇本陣を守るため城下町にならって作られた。太田宿では祐泉寺と下町(上の画像と動画)に見られる。何の変てつもない曲がり角で外敵を防ぐために工夫されたのである。
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<虚空蔵堂と承久の乱古戦場跡>
中山道を江戸から京へ向かうとき、太田宿の西の出口に虚空蔵堂がある。天明2年(1782)の「加茂郡太田村絵図」には既に描かれており、当時から信仰の対象となっていた。ここには、京への道標があり、旅人たちの道案内となっていた。ここから段丘を下り、木曽川沿いに京を目指して西へ進んだ。
また、承久3年(1221)に起った「承久の乱」の木曽川合戦では、後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府軍が、木曽川を挟んで戦った。このあたりが戦場の北端であったといわれている。(可児側が幕府軍・太田側が朝廷軍) |
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中山道五十一番目の宿場となる太田宿は、中山道の三代難所の一つに数えられた「太田の渡し」があり、飛騨街道と郡上街道の分岐点であったところから、大いに栄えた。現在も国重要文化財の旧太田脇本陣林家住宅をはじめ、旧太田宿本陣門や2カ所の枡形などが残り、往年の宿場の風情を残している。 |