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土山宿 あいの土山(東海道)  滋賀県甲賀市
土山宿本陣跡
土山宿・扇屋 土山宿・問屋宅跡
旅籠・平野屋跡 二階屋脇本陣跡
 あいの土山 〜峠を越えて〜
 土山を称した言葉に「あいの土山」がある。
   「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」
と鈴鹿馬子唄に唄われるこの言葉にはさまざまな解釈がある。鈴鹿峠をはさみ、坂(坂下宿)と相対する土山(土山宿)という説、「あいのう」が北伊勢地方の方言で「まもなく」という意味があるので、「まもなく土山は雨が降る」という意味、また、坂は野洲川(やすがわ)西岸の松尾坂で、鈴鹿峠との間の土山という説など、いずれも土山を訪れた人々が親しみを込めてよんだ言葉かもしれない。
 鈴鹿峠は東海道の中でも箱根に次ぐ難所だった。特に伊勢側からの上りはけわしく、旅人たちは苦労したようです。そんな中、人や荷物を運搬する馬子たちは重宝され大いに活躍した。鈴鹿馬子唄はそんな馬子たちの労働歌として生まれ、後に人形浄瑠璃や歌舞伎の演目の中で唄われ広く知られることとなった。土山を描いた図に雨の風景が多いのは、この馬子唄の影響かもしれない。
 土山は、古くから近江国と伊勢国とを結ぶ交通の要衝として機能していた。「土山」という地名は、中世の紀行文の中に見え、室町時代承応31年(1424)の『室町殿伊勢参宮記』には「つち山と申所こえ侍るに−−−」との記述があり、その頃から街道筋に集落を形作っていたと考えられる。
 また、室町時代後期の記録には、保内商人が荷を運ぶための馬を土山の馬方に依頼するという内容があり、荷物運搬の中継地点として機能していたようです。文禄4年(1595)には土山郷の伝馬飼料にあてるため、屋敷年貢の内より30石を免除する通達が置かれていたことがわかる。慶長6年(1601)東海道の整備によって宿に定められ、伝馬36疋(ひき)の常備が命ぜられた。交通量の増加に伴い、その後は伝馬100疋、人足100人に改められた。
 土山宿は東海道49番目の宿で、その規模は、天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』によると、宿高1348石余、家数351軒、人数1505人、本陣2軒、旅籠屋44軒とある。宿は幕府領で、代官による統治を受けていた。宿の中心は中町から吉川町にかけてで、本陣・問屋場・陣屋・高札場などの施設があり、宿内の一里山町には街道の両側に一里塚が設けられていた。また、土山宿から日野・八日市を経て中山道小幡までをつなぐ御大参街道が通り、多賀大社の参詣や北国への近道として利用された。
陣屋 幕府領であった土山宿は代官による支配を受けており、その役人たちが働いていた役所を陣屋という。土山宿では吉川町に南側にあり、東西約46m、南北約55mの広さだった。
問屋場 公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる業務を行う場所で、宿の管理をつかさどる問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、人馬に人や荷物を振り分ける馬指・人足指らの役人が詰めていた。
脇本陣 本陣を利用する大名などが重なった場合に利用され、本陣の補佐的施設として機能した。土山宿では、中町の二階屋(堤氏)が脇本陣に定められていた。
旅籠屋 公用以外の武士や一般旅行者が宿泊した食事付きの宿屋。接客を目的とした飯盛女を置くところもあった。
木賃宿 旅人が自炊し、燃料代を払う形式の宿屋。旅籠屋に比べ料金が安く、多くは宿のはずれにあった。
<土山宿本陣跡>
 土山宿本陣は、寛永11年(1634)、3代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。土山氏文書の「本陣職之事」によれば、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を初代として之を勤めた。
 本陣は当時の大名・旗本・公家・勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
 明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿に宿泊することもしばしばであった。なかでも明治元年9月、天皇行幸の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、第1回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。
 本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治3年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。
<森鴎外と土山>
 森鴎外が土山を訪れたのは、明治33年3月2日、祖父白仙の墓参のためである。白仙は、石見国津和野の藩医であった。万延元年(1860)藩主の参勤交代に随行して江戸へ出向。翌年5月帰国の際に発病し、遅れて国もとへ向かう。途中11月7日、土山宿井筒屋にて急死した。遺骸は常明寺の墓地に葬られ、津和野へは遺髪のみが届けられた。鴎外が生まれたのはその翌年である。
 鴎外は祖父への思慕深く、小倉在往時代、軍医部長会出席のため上京の途中、土山へ立ち寄り、無縁仏同様に荒れ果てている祖父の墓を探し当て、常明寺の境内に墓を修した。寺を出て平野屋藤右衛門の家に投宿し、翌日三雲を経て東京へ向かった。
 明治39年祖母きよが、大正5年母ミネが没。遺言により常明寺に葬られた。昭和28年、3人の墓は津和野永明寺へ移された。現在常明寺境内には、鴎外の子孫が建立した供養塔が立っている。(津和野・永明寺は当HPの「寺」の中に載せてある) 
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