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<板橋宿本陣 飯田新左衛門家>
本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より二里半(約10q)の近距離にある板橋宿では、宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用さた。また、その際には、藩主と江戸の家臣との謁見、送迎の場としても機能していた。
板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていたようです。宝永元年(1704)、当家は飯田本家より別家しているが、その際、世襲名 「新左衛門」と本陣・問屋役を引き継いでいる。また併せて、屋敷地359坪、田畑15町余(約16,000u)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えた。なお、当家三代目新左衛門珎儀の遺言状から、別家後の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の「御本陣家」に指定されたことが窺える。
本陣は「中山道宿村大概帳」によると建坪97坪、門構え玄関付の建物だった。また、本陣指図からは、間口・桁行ともに12間半(約22.5m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間のほか、御膳所や18畳の玄関などを備えていたことが分かる。他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供することが少ない板橋宿の性格を示している。
本陣の建物は明治23年(1890)に火災に遭い焼失したが、昭和39年(1964)、明治期に建てられ母屋の解体時、床板として転用されていた関札が見つかっている。この関札や本陣図などの古文書は、区有形文化財に登録され、板橋宿本陣の姿を今に伝えている。 |
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<遍照寺>
江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であった。明治14年(1881)に旭不動堂と称して成田山新栄講の道場に、昭和24年(1947)
真言宗寺院となり、現在は千葉県成田山新勝寺末寺となっている。
中山道沿い、板橋宿内に所在し、境内は宿場時代の馬つなぎ場として活用され、幕府公用の伝馬に使う囲馬や公文書伝達用の立馬普通継立馬などがつながれていた。境内にまつられる寛政10年(1798)
建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめている。加えて絵馬50点を所蔵し、区内有数の所蔵点数を誇っている。なかでも馬の絵柄の絵馬が最も多く、遍照寺と馬のゆかりの深さを物語っていると考えらる。
また、堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の描いた、明治期の板橋遊廓千代本楼遊女道中の「遍照寺参詣図絵馬」が納められた。明治初期の板橋宿の風俗をうかがい知ることができる貴重な資料です。 |
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<板五米店>
板五米店は、整備工事の際に発見された棟札の銘文から、大正3年(1914)に、当主の川口角太郎が地元の棟梁である市川寅吉らに依頼し、建てられたことが判明している。開店当初の店名は「田中米店」で、その後「板五食料販売所」、さらに「板五米店」と改められている。
現在は米屋としての営業は行われておらず、飲食店として使用されている板五米店は、中山道の街道に面して立地する町家の系譜を引いた、道路側に下屋庇(げや・ひさし)をひさし)をもつ土蔵造町家であり、店舗部分と住居部分によって構成されている。
近世町家に煉瓦の袖卯建 (そでうだつ)が配されるなど、和風建築に洋風の意匠が加味された、近代の息吹を感じさせる建造物です。
板五米店の大きな特徴は、袖卯建を大規模にしたような煉瓦造の左右の妻壁が軒高まで建ち上がっている点です。ここに両妻の煉瓦壁が倒れるのを防止するための引張鉄筋(テンションバー)が数カ所にけられ
調整用のタンバックルが付されている。 |
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| 中山道は、東海道と同様に江戸と京を結んでおり、海沿いを経由する「東海道」に対して、内陸を経由する街道であった。板橋宿は、中山道の最初の宿場町として置かれたもので、江戸の出入口、「江戸四宿」の一つとして繁栄した。京側より「上宿」(現・本町周辺)、「仲宿」(現・仲宿周辺)、「平尾宿」(現・板橋一丁目周辺)からなり、それぞれ名主が置かれていた。現在は人通りの多い、商店街として賑わっている。 |
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<板橋平尾宿>
中山道69宿の第1番宿 江戸日本橋より約2里9丁(約9q)駕籠や・とんやば・馬借・荷駄・飛脚(問屋場)があった、 |