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ここに復元した門・塀・土蔵は、近代日本の造船技術の先駆者赤松則良(のりよし)によって、明治25年(1892)頃に建てられた。門を中心に両側に伸びる塀と、2棟の土蔵で構成される。
門は切妻造りの一戸門(いっこもん)で、左右に門番所が併設される。門番所は布石積基礎(ぬのいしづみきそ)の上にフランス積みのレンガ造りとし、上部は木造漆喰塗仕上げされる。
塀は三和土(たたき)の基礎に長手積み手法によるレンガ積みの部分と、三和土積みだけで成り立つ部分が併用されている。北側の土蔵の壁は塀と一体をなすが、南土蔵は単独で建てられている。三和土積みと、レンガ積み塀が併用された姿は、明治建築の特徴をよく表現している。(静岡県・磐田市指定文化財) |
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<土蔵>
伝統的な土蔵造りの建物だが、腰回りを煉瓦壁とする意匠と基礎に煉瓦を用いてあるのが特徴です。こお土蔵は、米蔵として使用していた。
棟束に打ち付けられた棟札に、「明治33年(1900)12月6日上棟」と書かれているが、二階梁や小屋梁のほとんどが転用材だったので、おそらく後年に赤松家旧建物の廃材を使って補修したものと考えられる。
<貯蔵庫>
はじめは漬物などを貯蔵していたが、昭和の頃になると薪なども保管していた。 |
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<水屋>
食器類の洗い場として使われていた。三和土(たたき)製の円形の井戸があった。水屋は四阿(あずまや)で、4本の柱の上に、鉄板葺の方形屋根が組まれ、上部に瓦製の露盤宝珠(ろばんほうじゅ)があった。
<内蔵>
明治41年(1908)の測量図にある4間×2間半の内蔵と同じ位置にあるが、現在のこの内蔵は当時のものではない。母屋の内側にあったために内蔵と呼ばれていた。 |
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<日本造船技術の先駆者 赤松則良>
赤松則良は、天保12年(1841)幕臣吉沢雄之進の次男として江戸で生まれ、祖父の跡を継いで赤松姓を名乗った。安政4年(1857)16才で蕃所調所句読教授出役を命じられ、同年長崎海軍伝習所第三期伝習生を命じられて、長崎でオランダ語を勉強した。
翌年、日米修好通商条約が締結されると、則良は勝海舟らとともに咸臨丸で批准書換の使節団に随行して渡米し、文久2年(1862)オランダへ留学して造船技術などを学んだ。
大政奉還した徳川慶喜が駿府へ移り住んだのち、則良は徳川家に縁のある見付に移り、磐田原開墾に着手した。また、沼津兵学校創立のときに教授として招かれ、西周らとともに兵学校の基礎を築いた。
その後、則良は、勝海舟の勧めもあって明治新政府に仕え、明治20年(1887)海軍中将男爵となり、大日本帝国海軍の拡充・強化に尽力した。
明治25年(1892)頃、見付に本籍を移し、貴族院議員を務めたが、明治45年(1912)に妻・貞(てい)が亡くなると、長男範一の東京・千駄ヶ谷の屋敷に移り住み、大正9年(1920)に78歳で亡なった。榎本武揚とは義兄弟の関係。 |
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咸臨丸の模型。咸臨丸は、江戸時代末期、アメリカとの条約交換のため、日本の軍艦として初めて太平洋を横断した。
現在、旧赤松家は、磐田市旧赤松家記念館として公開されている。 |