|
|
|
|
|
|
|
|
日本最初の上水といわれる「神田上水」は、江戸時代の初期、徳川家康の命を受けて、 大久保藤五郎忠行(主水)が開いた。井の頭池を水源として、目白台下の現在の大滝橋辺りに堰を設け、川の水位を上げて上水として流し、余った水は、神田川(江戸川)に流した。
上水は、 水戸屋敷(現在の小石川後楽園の地)を通し、現在の水道橋東側で、神田川を懸樋でわたし、神田・日本橋方面に給水した。この上水は、江戸時代から長い間、江戸・東京市民の生命の糧として大きな役割を果たした。明治34年
(1901)6月、飲料用として給水を停止し、その使命を終えた。
この前の道路は、 神田上水の流路で、開渠であったものを、明治の初めに暗渠として道路とた。この道を、通称”水道通り”といい、旧町名に水道町、水道端の名を残している。
<旧金富町>(昭和39年までの町名)
明治2年、小石川金杉水道町の一部、小石川富坂新町、小日向金剛寺門前町、多福院門前町の4町を合併した。
町名は、金剛寺の「金」と富坂新町の「富」の頭文字をとって金富町とした。明治5年、さらに付近の土地を加えた。
金剛寺坂上に、俗に鶯谷というところがあった。ここに江戸時代狂歌で有名な大田蜀山人(南畝)が住んでいた。また、小説家永井荷風は明治12年、旧金富町45番地(現・春日2−20−25あたり)に生れ、少年時代を過ごし、このあたりから伝通院周辺は、荷風の心のふるさとであった。小学校は黒田小学校(現・五中の地)を卒業した。
この町に遊びくらして三年居き
寺の墓やぶ深くなりたり (釈 迢空) |
|