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大正時代(第1次世界大戦)に徳島県鳴門市板東地区にあった俘虜収容所は、当時としては大変珍しい自治的であり、住民とも友好関係にあった収容所。アジアで初めて「第九」交響曲が演奏されたのがここ、板東俘虜収容所内。 その史実に基づいて作られた映画が「バルトの楽園(がくえん)」です。画像は、そのロケ地。
「BANDOロケ村〜歓喜の郷〜」総工費3億円、6ヶ月かけて建設されたセットです。思いの外、静かでゆっくりと見学することができました。
1段目の画像はロケ地の門です。ボランティアガイドさんです。映画にもエキストラとして参加した方で撮影の裏話も話してくれました。
2段目左画像は、日本で「初めて第九が歌われた場所」の広場です。右画像は管理棟です。 |
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管理棟には小道具も多数展示されています。バラッケ(捕虜が寝泊まりしていた兵舎をドイツ語でバラッケという)は俘虜たちのプラーべート空間。バラッケは収容所内に全部で8棟、一つの棟にはおよそ130人が入っていました。自由で開放的な生活が伺えました。印刷所や食肉加工所、製パン所、ミルツ浴場、酒保(バー)柔道場もありました。当時の日本人より生活レベルが高かったようです。松江所長の人柄と信念、俘虜たちの自治の賜です。
最下段の画像は、本当の板東俘虜収容所があった跡地です。静かでした。
<板東俘虜収容所>(ばんどうふりょしゅうしょうじょ)
第1次世界大戦、徳島県鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)に開かれた俘虜収容所をいう。青島(ドイツの租借地)で、日本軍隊の捕虜となったドイツ兵のうち約1000名を大正6年(1917)から大正9年(1920)年まで収容した。
収容所長の松江豊寿は捕虜の自主活動を奨励し、捕虜に対する公正で人道的、友好的な処置を行ったとして知られている。ベートーヴェンの交響曲第九番が日本で初めて全曲演奏されたのも、ここ板東俘虜収容所である。このエピソードは「バルトの楽園」として平成18年(2006)映画化されている。現在、板東俘虜収容所跡地は「ドイツ村公園」となっている。(提供はF.S
さん)
●ロケ地のその後
撮影終了後、地元の要望により、平成21年(2009)2月まで公開された。その後、俘虜収容所跡地の南方に、ロケ地の一部を移設して1/3の規模で平成27年(2015)5月まで「バルトの庭」として公開されていたが、現在は閉鎖されている。収容所の様子は、跡地の北方にある鳴門市ドイツ館で、うかがいしれる。 |
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<ドイツ橋>
第一次世界大戦の際、中国の青島で捕虜となたドイツ兵953人が、大正6年(1917)から大正9年(1929)までの間、大麻町桧の坂東捕虜収容所に収容されていた。この間、地元住民との間に”国境を越えた人間愛と友情”がめばえ、高い水準のドイツ文化が伝えられた。バターやチーズの製法、博覧会の開催、楽団による演奏会等地元の発展に大きく貢献した。
帰国を前に記念として母国の土木技術を生かし近くで採れる和泉砂岩を使ってドイツ橋が造られた。 |
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<心願の鏡池>
第一次世界大戦のさなか、中国青島の戦いで捕虜になったドイツ兵士千人が大正6年から9年にかけて異郷の地板東捕虜収容所に過ごした。
ドイツ兵士達が、遠い祖国を偲びながら一日も早く故国に帰れることを願いつつ。当神域を散策し、記念のため境内に池を掘ってメガネ橋を配し、小谷にドイツ橋を架けた。
板東の地で、日々を送った兵士達は地元の人々と国境を超えた暖かい友情で結ばれ、今も尚、日独友好の灯をともし続けている。
以来七十有余年を経て、この度当神社では神域を拡張し、メガネ橋の周辺を整備して「心願の鏡池」と命名した。(阿波国一の宮 大麻比古神社)
(この上2段の画像は H.I さんの提供) |
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<兵舎第5棟>
収容所正門から北にのびる 「大通り」の両側に、幅7.5m、長さ73mの建物が4棟ずつ、合計8棟建てられていまた。各兵舎には、1棟あたり100〜1200人の下士官以下の捕虜が収容されていた。
現在、公園の敷地内には、「大通り」東側の4棟(第5〜8棟)のレンガ基礎が残っているが、いずれも全長の半分にあたる36m程度を地上で確認することができる。建物内部は、東西方向に延びる通路の両側に、
捕虜のベッドや荷物などを置いた部屋があった。 |
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<製パン所>
収容所内には、捕虜の日常食として支給するパンを製造する施設があった。建物は木造でしたが、内部には長さ4.6m、幅3.7m、高さ約2mのレンガ造りの窯が建設された。窯はその後、地上部分が解体撤去されたものの、発掘調査によって、窯の基礎部分が見つかった。
製パン所では、民間のパン職人や軍隊でパン焼きの任務に就いていた捕虜たちが製造に携わり、当初日本側が建設した窯も、捕虜たち自身の手で作り直されたことが記録に残っている。 |
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<ドイツ兵の慰霊碑>
徳島、松山、丸亀および板東の収容所で事故や病気により亡くなった捕虜11名を慰霊するため、大正8年(1919)捕虜自身の手によって建てらた。正面には慰霊の言葉、
残る3面には11名分の姓名・所属・生没年月日が刻まれている。
収容所閉所以降、手入れする人もなく荒れ果てていた慰霊碑は、第二次世界大戦後、地元住民に発見され、その後の清掃活動がきっかけとなり、再び板東の人々と元ドイツ兵捕虜との交流が始まって、現在の日独友好交流に繋がっている。板東俘虜収容所跡は国指定史跡に指定されている。 |