写真紀行・旅おりおり トップページへ 写真紀行・旅おりおり : 旅先で撮影した景色、建築、史跡、祭、風物等の写真と動画
 <過ぎし日の記憶を巡る写真紀行


 印象深い景色
坂道灯台横丁・小路街角通り温泉
 史 跡
街道史跡城・城跡人物奥の細道墓地・終焉地Play Back
 建築・構造物
伝統的建築先端建築神社漁港垣根
 自 然
池・沼海岸
 産業・交通
伝統・地場産業バスターミナル国内線自動車・バイク道風景
 四季の景色
棚田春景色夏景色秋景色冬景色
 歌の舞台・祭・他
歌の舞台祭・イベント夜景テ−マパ−ク趣味悠々
 管理人
管理人備忘録リンク集

濟生學舎発祥の地 近代医学黎明期   東京都文京区
濟生學舎発祥の地
濟生學舎発祥の地 濟生學舎発祥の地
 明治9年(1876)4月9日、本郷元町一丁目66番地に長谷川泰(1842〜1912)によって、「濟生學舎」が開校した。
 長谷川泰は佐倉順天堂2代目堂主・佐藤尚中に学び、ついで西洋医学所頭取。松本良順に学んだ。佐藤尚中が順天堂より大学東校(東大医学部の前身)の初代校長(大学大博士)として赴任した際、小助教として佐藤尚中を支えた。後に校長心得となるが、明治8年(1875)、長崎医学校校長に赴任するも、3ヶ月後に長崎医学校が廃止となり帰京した。佐藤尚中の座右の銘「濟生(広く民衆の病苦を済(すく)う)」の志を継いで、医術開業試験の受験教育を目指す学徒のために佐藤尚中の支援を受け「濟生學舎」を創設した。ここに全国から多数の医師志望者が集まり、その多くが隣接する順天堂で通学生となって臨床教育を受けた。
 明治12年(1879)冬、火災により濟生學舎の校舎を焼失し、この地の一角に移転。その後、発展した濟生學舎は明治15年(1882)に湯島4丁目8番地(現在のガーデンパレスの地)に移り、本格的な校舎を建設し、明治19年(1886)に薬学部、附属蘇門病院を付設して「東京医学専門学校」と称した。
 濟生學舎は隆盛の一途をたどったが、明治36年(1903)8月31日、長谷川泰は廃校を告知して28年間の歴史を閉じた。その間、21,000人余の学生が学び、9,600人余の医師を輩出した。濟生學舎が我が国の近代医学黎明期の医学教育、地域医療に果たした役割はきわめて大きなものであった。
北海道
日本最古のコンクリ電柱 サッポロビール博物館 北の国から
東北
東日本大震災 田老の大防潮堤 石ノ森萬画館 女川の津波被害
チリ地震津波
関東
東京 東大・安田講堂 駆逐艦の錨 原首相遭難現場 浜口首相遭難現場
戦艦陸奥の主砲 二式大型飛行艇 二重橋飾電燈 東京駅警備巡査派出所
2.26事件 本郷菊富士ホテル跡 戦災の証言者 皇居正門石橋飾電燈
赤坂離宮正門哨舎 零戦 泰緬鉄道C56 旧新橋停車場
鉄道寮新橋工場 北里研究所 日本赤十字社中央病院 宗教大学車寄
東京駅の赤レンガ駅舎 東洋女子歯・医専門学校 ナヒーモフの主砲 萩の舎跡
神田上水路 本郷喜之床 かねやす 第四(本妙寺)校跡
濟生學舎
横浜 ゲーテ座跡 根岸競馬記念公苑 フランス山 北朝鮮工作船
横川駅 昭和の浦安 前橋監獄雑居房 カノン砲 壱岐丸の号鐘
らお車
甲信越
旧松本少年刑務所 御坂隧道
東海
明治村 シアトル日系福音教会 ハワイ移民集会所 ブラジル移民住宅 瓦斯燈
歩兵第六聯隊兵舎 名古屋衛戌病院 第八高等学校正門 半田東湯
名鉄岩倉変電所 自動電話
浜松 戦火を超えた市民の木 ガス燈 旧二俣町役場 火の見櫓
宣戦布告の詔書 千人針new
ボンネットバス 清水次郎長の船宿 土肥金山 人力車 相良油田
近畿
京都 京都七條巡査派出所 旧二条駅舎 終戦の日の新聞 電気鉄道事業発祥の地
日本映画発祥の地
阪神淡路大震災 神戸港震災メモリアルパーク 阪神大震災語り部
大井牛肉店 太陽の塔 サンタ・マリア
中国
原爆ドーム 台場鼻潮流信号機 自動電話 旧大社駅
四国
板東俘虜収容所 岬の分教場 防空壕跡
九州
長崎 一本柱鳥居 浦上天主堂 原爆落下中心地 下の川の惨状
聖徳寺灯籠 被爆当時の地層 防空ごう 被爆クスノキ
鉄道発祥の地 運上所跡 湊会所跡
鹿児島 薩摩暦 電信使用の地
特攻基地・知覧 特攻基地・万世 旧第十二師団司令部正門
共通
郵便ポストの変遷 昭和20〜30年 昭和30年代@ 昭和30年代A 昭和30年代B
戦後復興期の物


Google
WWW を検索 写真紀行・旅おりおり を検索

「写真紀行・旅おりおり」の画像を利用したい場合は、「」より連絡してください。

Copyright(c) 2002-2018 写真紀行 All Rights Reserved.