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<寒立馬(かんだちめ)の由来>
文治5年(1189)、甲斐国南部荘三カ光行が、奥州藤原氏征伐の軍功により、源頼朝から陸奥国の一部を拝領した。元来、在来種の馬が存在し、良馬が多かったと言われている当地は、南部氏による統治後も、我が国きっての良場の産地として隆盛を誇った。
江戸時代には、尻屋崎も南部藩が管理する牧場として馬産振興が図られ、尻屋地区の住民も協力している。当時の事業として外国産馬の導入による改良が行われたとも言われ、軍用馬のほか、農用馬としても需要があったと考えられている。
明治期には、政府の政策により、軍馬の需要が高まったことに合わせて外国産馬が導入され、交雑・改良が進んだと言われている。その後、昭和の中頃までは農用馬として耕作や荷役などにも活躍した。
寒立馬は、人々の生活や歴史を背景に、幾多の変遷を経て今日に至っている。その変遷の歴史を示すように、競走馬と比べれば胴長短足でスタイルはよくないが、在来馬の血を引き継いでいるせいか粗食で、寒さに強く、従順な性格だと言われている。
祖先も「四季置附」(しきおきづけ)や「野放し馬」と称され、1年中放牧されてきた。
「寒立馬」の名前は、昭和45年(1970)の正月。尻屋小学校の岩佐勉校長先生が、
「東雲(しののめ)に 勇みいななく 寒立馬 筑紫ケ原(ちくしがはら)の 嵐ものかは」と詠んだ短歌に登場する。以来、全国の皆さんに「寒立馬」と呼ばれて可愛がられている。 |
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<寒立馬の保護>
地域の歴史と歩んできた寒立馬だが、一時、絶滅の危機にも瀕していた。本来は軍用馬として重宝されていたが、改良が進むにつれて耐寒性・耐久性・粗食性といった能力にも長け、軍用馬としても活躍した。しかし、時代が進むにつれて農業が機械化されると、農用馬の需要は激減。寒立馬も平成7年(1995)には9頭まで減少し、存亡の危機に見舞われる。
そこで、青森県と東通村は平成8年(1996)に寒立馬保存対策基金を創立し、民間からの助成も活用し、施設整備、繁殖、分娩対策、衛生管理、放牧管理などの保護対策に乗り出した。
寒立馬保護への善意は全国から寄せられ、保護対策も功を奏し、寒立馬は平成10年(1998)には26頭まで回復する。以後、自然と向き合いながら適正な管理と放牧地の保全を行い、自然放牧のバランスを取りながら頭数を維持している。 |
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<青森県天然記念物「寒立馬とその生息地」>
「寒立馬とその生息地」が、以下の理由で平成14年11月28日青森県の天然記念物に指定された。
@ 寒立馬は下北の風土と馬産の歴史がつくあげた歴史的文化遺産 |
寒立馬は遅くとも藩政時代から自然放牧に順応し、厳冬期の厳しい環境に適応した形質を獲得し、寒立馬特有の野生的風貌と生活力を身につけた。このような歴史的背景と生態的特徴を合わせ持つ馬は他に例を見ない。 |
A 環境に適応した形態的・生態的特徴 |
寒立馬は、寒冷風雪という環境に適応した体毛を生じている。また、蹄は底面積が広く、野草地から簡単に海岸に至る砂利を往来することによって底にデコボコを生じ、そのことが柔らかい地表面や雪面を歩行する場合、滑り止めの役をしている。 |
B 環境保持の面で果たす役割 |
寒立馬の生息地である尻屋崎には、国・県の絶滅危惧種に指定されている「シコタンキンポウゲ」が生息しているが、寒立馬はこれを採食せず、他種の植物を採食することから、他種植物との生存上の競り合いを避けることとなり、シコタンキンポウゲの良好な生存を手助けしている。 |
(説明文は、現地解説文を引用) |