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<岐阜で漫俳(まんぱい)を提唱し広めた岡本一平>
ー新しい5・7・5(漫俳)ー
近代漫画の祖と称される岡本一平は、漫画の歴史を語る上で欠くことの出来ない人物です。大正から昭和初期にかけて活躍した岡本一平は、「時の宰相(総理大臣)の名を知らなくても岡本一平の名前を知らない者はない」とまでいわれた。
また岡本一平は、岡本太郎(現代美術家)の父であり、岡本かの子(歌人・仏教研究家・小説家)の夫でもある。妻のかの子を小説家として世に出した一平の功績は大きく、かの子の才能を認め、つねに庇護者としてかの子を支え続け、子の太郎を戦前のパリに留学させて勉強させたのも一平の財力、理解のおかげでもあった。
小説家の川端康成は、親子三人がともに表現者であった岡本一家のことを「聖家族」と呼んでいたがこの家族を支え、「聖家族」たらしめたのは一平の資質、器の大きさであり、その財力のおかげであった。しかし、近頃では岡本太郎や岡本かの子を知っていても岡本一平を知らない人や、マンガを読んでいても漫画家・岡本一平を知らない人が増えてきた。
ましてや敗戦の年、昭和20年(1945)3月に西白川村(現・岐阜県白川町)に家族とともに疎開してきた岡本一平を、昭和23年(1948)10月11日に古井町(現・岐阜県美濃加茂市)で死去したことを知る人は少なくなった。 |
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<一平漫俳句集>
昭和20年終戦の年、岡本一平は岐阜県に疎開。敗戦後、一平はすぐに東京に帰らず、脳溢血で急逝する昭和23年まで岐阜県に滞在した。一平は地元の人々と親しく交流し、講演、画会など地域の文化振興に一役かった。漫俳という17文字の文芸を創唱し、吟社を作って『漫風』という機関誌を発行。庶民の生活を明るく句に詠い、地元の人たちと文芸活動を展開した。この『一平漫俳句集』は昭和25年、死後吟社の同人によって刊行「したものです。
<漫風>
岐阜県に疎開してきた漫画家・岡本一平は、当時既にその一線を退いていた。しかし、その名は高く県内各地で講演会、画会を開いていた。疎開先の白川町で、地元の人たちと新しい十七文字の短詩形の文芸「漫俳」を創めた。
漫俳は実生活を詩の素材にして自由に詠う、俳句と川柳の中間に位置する、親しみやすい十七文字の句です。白川町と美濃加茂市に漫俳の吟舎ができ、『漫風』はその吟舎の句誌です。昭和22年から25年の間、15号まで発行されて終刊した。 |
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漫俳は実生活を詩としてとらえ、俳句の風雅と川柳の穿(うが)ちと笑いを取り入れて自由に詠うもの、俳句における季語などの約束事を排し、川柳でよく見かける世の中を斜めに見る皮肉な風刺、嫌味を避け、自分の思いをまっすぐに17文字の句に表現する漫俳という新しい短詩形の文芸を提唱し、白川町の三川を漫俳発祥の地として文芸活動を創めた。当時、美濃加茂市内の人々もその活動に参加していた。
美濃は、昔から狂俳が盛んな土地柄で、白川でもその愛好者は多く、「灯籠会」と称して祭礼や盆の余興に狂俳の会が村のあちこちで催されていた。
「灯籠会」は投句された句に絵をそえて紙に書き、木で作った箱型の灯籠に貼り付け、中にロウソクを灯して道端に立てて展示する。夜の闇にほのかに揺れる狂俳。そんな風情ある行事が美濃の各地で行われていた。岡本一平は昭和20年の秋、白川町中川で狂俳の選者を頼まれた。選者から出された題、例えば「里の秋」について畑仕事をしながら懸命に下の七五の十二文字を考え、ようやく出来た句、「里の秋 二度惚れなおすふる里よ」に入花料(投句料)をそえて応募する。選者によって選ばれた上位の句には景品がつき、灯籠に自分の句が浮かび上がるのです。
川柳、俳句の十七字に対して冠付け、笠付けの一種である狂俳は十二字の最も短い文芸で、地芝居とともに庶民の娯楽の一つとして親しまれていた。
若い頃、小説家志望であった一平は俳句の造詣も深く、狂俳と接することで漫俳を思いつき、その漫俳俳句手控帳に「時世に鑑みふと雑俳の改革を思い立ち『お粥腹減らさぬように笑わそう』」と書きとめ、昭和21年3月17日、一平による漫俳が提唱された。 |
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