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縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。
のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。
<八脚門 一棟>
八脚門は、三間一戸、一重、入母屋造、一軒疎垂木、本瓦葺。表正面の柱間は4.9m、側面3.0mで創建。当時のものとは若干の変容が推定される。柱は、円柱で柱頭にのみ粽をつけ、頭貫・台輪をとおしてその上に組物で軒を支え、柱間の中備には間斗束を置く。木鼻の彫刻文様や組物の造りに室町時代の様式を残している。
愛媛県指定有形文化財(建造物) |
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| 中門 |
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<須賀山 正智院 圓明寺>(えんみょうじ)
圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。大正13年(1924)、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24p、幅が9.7p、厚さ約1oで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。
奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで知られるが、その銅板納札に歴史上はじめて「遍路」の文字が記されていたことから、歴史的価値は高く、現在も圓明寺に保管されている。
本堂の中には長さ4mはあろうかという、巨大な龍の彫り物が施されています。今にも動き出しそうなこの龍、一説には名工・左甚五郎の作といわれている。
| 本尊 |
阿弥陀如来 |
| 真言 |
おん あみりた ていせい から うん |
| 宗派 |
真言宗智山派 |
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| 大師堂 |
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<キリシタン灯ろう>
「十字架形灯ろう」
高さ40p、合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ隠れキリシタンの信仰に使われたとの説もある。 |