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<延命寺山門>
この門は、元、今治城々門の一つでその建造年代は不明であるが、一説では、天明年間の建造だとも言い伝えられ、明治3・4年に今治城を取り壊した時、当山へ譲り受けたものである。 |
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<近見山 宝鐘院 延命寺>(えんめいじ)
縁起によると、養老4年に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年間になって、弘法大師が嵯峨天皇の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の53番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。
その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。
本尊は宝冠不動明王坐像で60年に一度開帳の秘仏で平成28年(2016)に開帳され、それに先立ち本堂の修繕が行われた。再三の火災から逃れているので火伏不動尊と呼ばれる。厨子の向かって左脇には五大明王の大威徳夜叉明王と金剛夜叉明王、右脇には降三世夜叉明王と軍荼利夜叉明王が拝観できる。
| 本尊 |
不動明王 |
| 真言 |
のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん |
| 宗派 |
真言宗豊山派 |
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<大師堂>
大師像を拝観できる。右脇に興教大師像。厨子の下にタイムカプセルが埋められ2042年11月に開かれることになっている。 |
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<越智孫兵衛墓>
翁は、元禄時代の縣村庄屋で慈悲深く知恵優れ、郷土の発展、福利増進に努力して大功あり、お上の表彰を受けた。その時代、松山藩の農民は「七公三民」の重税に苦しんでいたが、翁の尽力により縣村だけは「六公四民」に免下げしてもらえた。そのおかげで享保17・8年の大飢饉の時も餓死者が出なかった。
元文3年4月2日に亡くなられた時、特に延命寺境内に葬り、今日まで毎年8月7日に感謝の慰霊祭を続けている。翁の顕彰碑は阿方公民館に建立されている。 |
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鎌倉時代の文永5年(1268)、華厳宗の学僧・凝然が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる『八宗綱要』を著述した。「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗で、上下2巻に記されている。
寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されてiる。
境内には、四国内で2番目に古い真念法師の道標などがあり、4月は、馬酔木(あせび)が、5月は人の背丈ほどのヒラドツツジの花が境内一円に咲く。 |