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<源光山 円手院 明石寺>(めいせきじ) 国史跡 伊予遍路道 (明石寺境内)
四国八十八箇所霊場第43番札所、源光山円手院明石寺は、天台寺門宗の寺院です。9世紀の開基と伝えられ、 室町時代の文明7年 (1475) には児島修験の先達が明石寺で修業を行っていたことが確認でき、
15世紀後半には山伏たちの修業の場となっていた。 戦国時代には宇和地域を領有した西園寺氏の娘が住持に嫁したとされる。 江戸時代に入り、寛文12年(1672)
宇和島藩主伊達宗利によって伽藍が再建された。 17 世紀後半には、児島報恩院が明石寺上之坊に明石寺の相続を認めており、江戸時代は僧侶ではなく修験者が管理する修験の寺でした。明治5年(1872)の修験禁止令後は、聖護院末の天台寺門宗の寺院として現在に至っている。
現在の伽藍は、本堂が明治23年(1890)、仁王門が明治後期から大正時代、地蔵堂は明治42年(1909)十二所権現堂は東九社が江戸時代から近代初頭、西三社が江戸時代中期の建築で、これらの多くは国の有形文化財に登録されている。
本堂南東の丘陵上にある観音像周辺には多数の中世石塔が存在している。なかでも観音像横の高さ155.3pの大型五輪塔は、流紋岩質凝灰岩(いわゆる伊予の白石)
製で、13世紀前半なかばに位置付けられている。
参道入り口から南に約180mの地点には、明石寺奥の院とされてきた白王権現が所在している。明石寺境内は、遍路信仰を理解するうえで重要であることから、史跡
伊予遍路道に追加指定され、保護が図られている。
本尊 |
千手観世音菩薩 |
真言 |
おん ばざらたらま きりく そわか |
宗派 |
天台寺門宗 |
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<本堂>
本来の名は「あげいしじ」 ですが、 現在は「めいせきじ」と呼ばれている。土地の古老たちは、この寺を親しみを込め「あげいしさん」 または 「あげしさん」と呼んでいる。この「あげいし」という名はその昔若くて美しい、女神が願をかけ、深夜に大石を山に運ぶうち、夜明けに驚き消え去ったという話しを詠った御詠歌の「軽くあげ石」からついたと伝えられている。8月の縁日には西日本各地から、多くの人々が集まり、終日賑わいを見せている。 |
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<大師堂> |
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大師堂の前の夫婦杉。 |
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<国史跡 伊予遍路道 (大寶寺道)> だいほうじみち
遍路道は、空海(弘法大師) ゆかりの四国八十八箇所霊場をめぐる道で、 およそ1400kmに及びます。16世紀には 「辺路」 という概念が成立したとされている。江戸時代前期には、一般民衆にも遍路が広まったと考えられている。
大寶寺道は、第43番札所明石寺境内から第44番札所大寶寺境内に至る道を指し、四国遍路の中でも3番目に長い距離とされている。その一部、明石寺境内西側の熊野神社拝殿前の鳥居から、御篠山の尾根を越え、江戸時代の在郷町である卯之町に至る約755mが史跡に指定されている。古道の状態がよく残り、途中には岩盤を掘削した切り通しが見られる。また、この道は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている卯之町と明石寺をつなぐ参道にもなっている。令和2年(2020)年2月27日指定。 |