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瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えなかった。栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。
栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。
ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っている。 |
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<府頭山 無量寿院 栄福寺>(えいふくじ)
寺伝によれば、弘仁年間、巡錫に来た空海が、嵯峨天皇の勅願により、瀬戸内海の風波海難の平易を祈って府頭山々頂で護摩供を修し、その満願の日に海はおさまり海上に阿弥陀如来が影向した。その尊像を山頂に引き上げ堂宇を建て本尊として開基したと云われている。
源頼義が此の国の刺史となった時に、河野親経とともに国中に薬師堂49箇所、八幡宮を8箇所を建てたが、京都の男山八幡を参考に勝岡から現在地に移し造営した当社が随一であり山内に清泉があったことから「石清水八幡宮」と号し、麓に阿弥陀堂も構えたが、中世の戦乱の災にかかり一時に煙雲にのぼりぬとなる。
明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立した。また、栄福寺が所蔵している江戸中期の手書きの納経帳にも「別当
栄福寺」の墨書きがあり、また同じく江戸時代の版木で押された納経帳でも「別当 栄福寺」の名がみられ、納経を明治維新からではなく、古来より行っていたことがわかる。
| 本尊 |
阿弥陀如来 |
| 真言 |
おん あみりた ていせい から |
| 宗派 |
高野山真言宗 |
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| 現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。 |
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<箱車>
足の不自由な15歳の少年が、犬に引かせて巡礼した箱車で、昭和8年にこの寺で足が治り、松葉杖とともに奉納したもの。その話から足腰守りのお寺としても信仰を集めている。
以下、寺に掲示されていた新聞記事から引用
『寺の宝物となっている箱車は木製の三輪車。白川密成住職によると当時、足の不自由な15歳の少年遍路が栄福寺を参った際、車にひもを結んで連れていた犬に引っ張られ、階段をころげ落ちた。だが、気付くと不思議と自分の足で立っており、車を奉納して遍路を続けたという。文書はないが、寺ではそう言い伝えられてきた。
約3年前の電話を受けたのは白川住職だ。「私は高知の漁村で生まれました。 あまりに体が弱く、母と海に身投げしようとしたんです。でも自然と岸まで泳いでしまいます。頂いた命で始めたのが四国遍路です。四国遍路のテレビで、私の納めた車がまだお寺にあることに驚きました」
そんな内容だった。「ご健在だと想像したことはなかったですが、その可能性があることに電話をいただいて気付きました」と白川住職。男性の名前や連絡先などは尋ねていないという。
「栄福寺の『箱車』に教えられたこと」と題し、白川住職はこの経緯を今夏刊行の小冊子「弘法大師と仏教に学ぶ生き方 四国遍路の寺にて」(高野山真言宗大阪自治布教団)につづっている。
「遍路には、文献に残っていなくても歴史家が認めなくても、たくさんの功徳説話が伝えられています。全身で巡拝の行をすることは、まっさらの心身でそういった世界に飛び込むことだと知りました」』 |