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| 泰山寺には山門はなく、石垣に囲まれた高台にある。瓦屋根付の白壁に囲まれている。白い漆喰塀が美しい。石段を上ると石柱門が立ち境内に入る。正面に客殿その右に納経所さらに右に大鼓櫓の古材で再建されたといわれる鐘楼がある。大師堂は右後ろになる。本堂は左奥にある。 |
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<金輪山 勅王院 泰山寺>(たいさんじ)
泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残っている。弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ。蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。
大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。
「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。
寺はその後、淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。本堂は、安政元年(1854)再建された。
| 本尊 |
地蔵菩薩 |
| 真言 |
おん かかかび さんめえに そわか |
| 宗派 |
真言宗醍醐派 |
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| 大師堂は、昭和60年(1985)に落慶。大師像を拝顔できる。 |
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不忘松:弘法大師が寺を建立した際に手植えしたという伝説が残る初代の松の切り株が祀られた祠があり、足腰に御利益がある。現在は三代目の松が育っている。
泰山寺の右約300mの「塔の元」という場所は、鎌倉時代の学僧で、『八宗綱要』を撰述した凝然が誕生した地とされている。 |
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