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<高福山 高福院 雪蹊寺>(せっけいじ)
弘法大師が開基。創建当初は真言宗高福寺であったが一時荒廃。その後,長宗我部元親の援助を受けて再興し、元親の宗派である臨済宗に改宗して、元親の法号にちなみ雪蹊寺と改められた。四国霊場の中には2ヶ所だけ臨済宗に所属する寺があり、藤井寺とこの雪蹊寺です。
本尊 |
薬師如来 |
真言 |
おん ころころ せんだり まとうざ そわか |
宗派 |
臨済宗妙心寺派 |
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本堂には、頭をなでるとご利益があるお賓頭廬(びんずる)様もある。本尊の薬師如来像は運慶晩年の作とされ、毘沙門天と脇侍3体は、運慶の子湛慶の作といわれ、国の重要文化財に指定されている。 |
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本堂の右側にある大師堂には眼鏡が入った額が奉納されている。眼病祈願を行い平癒した人が奉納したと言われている。 |
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境内に入ると右手にある梵鐘には「朝破無明夢夕闇清浄智」の銘が刻まれている。この詩は三島龍沢寺の老師で、山本玄峰の弟子である中川宗淵より贈られたものである。8代住職・山本玄峰は、若いころ失明に近い状態になり、裸足で7回の遍路を行った。その道中に行き倒れているところを太玄和尚に救われ、寺で働き始める。
<山本玄峰老師と終戦>
玄峰(げんぼう)老師 (1866〜1961)は、大正4年龍沢寺 (静岡県三島市)住職として入山、生涯の大部分を同寺で過ごした。老師を慕って様々な人が訪ねて来た。「わしの部屋には、村の婆さんも来れば乞食も来る。大臣から共産党までやって来る。みな同じ乗り合い舟のお客様じゃ」と言うのが老師の口癖でどんな人にも同じ態度で接していた。
昭和20年3月、東京大空襲後のある日、「もうあかん、軍は本土決戦とか、一億玉砕とか云っているがそんなことになったら国家は破滅するぞ、日本を救う道は只一つ、今すぐ無條件降伏するのみじゃ」と喝破していた。
その頃老師の許には多くの大物政治家が会いに来ていた。でもお呼びがかかっても出かけて行くことは殆んどなかった。唯一の例外が鈴木貫太郎である。鈴木の「会い度い」との希望を受けて3月25日、東京の某信者邸宅に出かけて行ったのである。
鈴木「老師、今日はわざわざお越し下さって有難うございます。日本は今、国家存亡の危機です。私は生来の軍人で政治は嫌いです。実は今、陛下から大命降下(総理就任)のお話があり、どうしたらよいものか悩んでおります。」
老師「貴方は政治家でもないし総理になる人でもない。総理になる人は世の中の悪いことも、よいことも、よく知っていて、いいことを尽すことの出来る人です。貴方は純粋すぎる。しかし、今はそういう人こそが必要だ。名誉も地位もいらん、それに貴方は2・26で一度あの世に行っている方だ。
生死は乗り越えて居られる。お引き受けなさい。ただし戦争を止めさせるためですよ」
この力強い老師の励ましの言葉で鈴木の迷いはふっ切れた。10日程して、新聞に鈴木の大命降下の記事があった。本土決戦を主張する陸軍の少壮将校達が鈴木の自宅に押しかけて、「貴方は戦争を終らせるための「総理就任か」と詰め寄った。鈴木は「貴公らのその勢いさえあれば国は救える。
屍を乗りこえて、本土決戦、聖戦完遂にまい進してくれ」と、決して本心を見せることはなかった。
その後、7月、ポツダム宣言が発せられ、それを受諾するかどうかの御前会議が開かれた。最終的には陛下の決断で受諾が決定した。その頃老師は鈴木総理宛に、「これからが大事な時です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで体に気を付けてやって下さい。」という手紙を送ったという。
やがて、終戦を告げる玉音放送が流された。その中にこの、「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」という言葉が聞かれたことは周知のことである。
「再来 山本玄峰伝」(帯金利著)より一部抜粋 |
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土居楠五郎。坂本龍馬の剣の師、長岡郡十市村字系木の郷士(現南国市十市) 高知築屋敷の日根野弁治道場の師範代として、龍馬が十四歳の時から指導し、人間形成にも深い影響を与えたようです。
慶応3年9月23日、龍馬最後の帰郷の時、種崎中城家に上陸、小島家にて二人は劇的対面をしている。十市の土居家墓所移転の時一族の墓石とともに当寺へ移したようです |