 |
|
<金剛力士像>
この金剛力士像2基は、享徳4年(1455)に越前(福井県)の大仏師が作ったとされる。作者は不明だが、大仏師は「法眼」という称号であったということは判っている。仏の守護神であり、外敵を威嚇する身振りと表現を表し、正面から見て右の像は左手に金剛杵を持ち一喝するように口を開け、左の像は右手の指を開き怒気を帯びて口を結ぶ。二つの像を区別するとき口を開ける像を阿形の像、口を結ぶ像を叶形の像という。
明治7年(1874)の大火で門は焼けたものの、この像は無事であった。昭和27年(1952)京都に修復に出して現在に至っている。久万町指定文化財。材質
檜、高さ 3m。 |
|
 |
|
 |
|
|
|
 |
|
<菅生山 大覚院 大宝寺>(だいほうじ)
百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。
弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。
仁平2年(1152)、全山を焼失。だが、直後の保元年間に後白河天皇が病気平癒を祈願して成就され、ここに伽藍を再建し、勅使を遣わして妹宮を住職に任じて勅願寺とした。このときに「菅生山」の勅額を賜り、七堂伽藍の僧堂を備え、盛時には山内に48坊を数えるほどであった。
その後「天正の兵火」で再び焼失、松山藩主の寄進で復興し、江戸中期には松平家の祈願所にもなった。
明治7年(1874)には、三たび失火により堂宇を焼失。この時は地元の人の寄進により、寺を再興する。
本尊 |
十一面観世音菩薩 |
真言 |
おん まか きゃろにきゃ そわか |
宗派 |
真言宗豊山派 |
|
|
 |
|
 |
|
 |
|
<本堂>
木々に囲まれた本堂は、青い銅板葺き屋根が美しい。この建物は明治時代の焼失の後、大正時代に再建された。鐘楼は2つあるが、石段を上って右側にある鐘が古いもの。左側の鐘は「平和の鐘」と呼ばれており、これは第2次世界大戦で亡くなった地元の英霊を供養するために建てられた。 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
<大師堂>
本堂の右側にある大宝寺の大師堂は、昭和59年(1984)に再建された比較的新しい建物。総檜造り、宝珠寄棟銅板葺きの豪壮なもの。 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
四国霊場八十八カ所のちょうど中間地点にあたり、「中札所」といわれる。43番明石寺からの道のりは約80q、峠越えの難所がつづき、歩けば20時間を超す「遍路ころがし」の霊場。四国山地に囲まれた標高579mに位置し、樹齢数百年の杉や檜の巨木に囲まれた参道を抜けたところにあり、幽寂な空気が漂う。
<菅生山>
菅生山は、 四国八十八ヶ所霊場 44番札所大宝寺境内を中心とした8haに及ぶ景勝地で、杉や桧の老木巨木がそびえたつ荘厳な雰囲気の参道を進むと、境内には町指定文化財の芭蕉塚(霜夜塚)をはじめ多数の文化財がある。
また、ユキノシタ ・シャガ・オカメザサが群生し、セリ・ワラビ・ボタン・アケビ ・ ホトトギス・イチゴ類など多数の植物が自生する山地植物の宝庫でもあり、木々や植物の織りなす四季それぞれの色彩が、総門・仁王門・本堂・大師堂・護摩堂・観音堂などの建造物と美しく調和し、訪れる人々の安らぎの場となっている名勝です。 |