 |
|
南光坊は、かつては別宮大山祇神社と隣接しており、明治初年(1868)までは大山祇神社の別当寺であったという。明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。
山門は、外側と内側に二体ずつ四天王を配置し寺を守護する大型の楼門。南光坊の別称『日本総鎮守三島地御前』の扁額が掲げられている。 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
| 平成10年(998)に再建された立派な山門は四天王が守護している。この山門の形式は四国霊場の中ではこの寺だけである。 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
<別宮山 金剛院 南光坊>(なんこうぼう)
寺の縁起は今から約1300年前にさかのぼる。河野氏の始祖・越智玉輿の弟である玉澄は、文武天皇の勅願を受けて大三島の大山積明神を勧請。法楽所として大三島の24坊中8坊をこの地に移転し、「日本総鎮守三島地御前」と称し、奉祭した。その後、弘法大師が別館を参拝し、坊で法楽(仏の教えを信じ行うことによってえられる喜び,楽しみを意味する仏教用語)をあげ、四国霊場第55番札所と定めた。
以後、別宮大山祇神社の別当寺として興隆してきたが、天正年間、伊予の全土を襲った長宗我部氏の兵火によって焼失した。慶長5年(1600)、この南光坊だけは大山祇神社の別当寺として再建され、藤堂高虎の祈願所として薬師堂を再建。江戸時代には藩主・久松公の祈祷所にもなり、祭祀料が奉納された。
昭和20年(1945)の大空襲で大師堂と金毘羅堂以外の建造物は焼失した。現在の本堂は昭和56年(1981)に建てられたものである。金毘羅堂は、文化年間建立の歴史のある建物。
| 本尊 |
大通智勝如来 |
| 真言 |
なむ だいつうち しょうぶつ |
| 宗派 |
真言宗醍醐派 |
|
|
 |
|
 |
|
 |
|
<大師堂>
大正5年(1916)に再建された大師堂は、屋根の四隅が軽やかに跳ね上がり、その上にある相輪塔と相まって、荒波の中を走る船のような様相を呈している。
大師堂の本尊は弘法大師像。第二次世界大戦時の空襲での戦禍を免れた。伝えられるところによれば、数多の焼夷弾が境内に落とされたが、そのいずれもがこの堂の屋根を滑り落ち、堂内にいた避難者の全員が無事であったという。 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
| 四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。 |
|