後楽園は、備前31万5千石の藩主池田綱政公が作事奉行津田永忠に命じ、貞享3年(1686)から14ヶ年の歳月をかけて、元禄13年(1700)に完成したもので、その面積約13万uに及び、江戸初期を代表する大名庭園です。本園の様式は、江戸初期に円熟した池泉回遊式の庭園で、園路に沿い回遊することによって移り変わる景色を眺める趣向になっている。又、操山、備前富士の借景を巧みに取り入れている。
本園の最たる特徴は、明るい芝生に池の広々とした水面の景趣が展開し、築山、植込み、亭舎などが風雅に配置され、それを縫う曲水、園路が優美な曲線を描き、瀬戸内の風土に調和した景観を構成していることである。
元この庭の名称は、菜園場、茶屋屋敷、またの名を岡山城の後に造られたことから、御後園と呼ばれていたが、この庭の造られた動機が、藩の政治をうまく治め、国が栄えてしかる後に楽しむという後楽の庭でいわゆる先憂後楽の精神に基づいて造られているところから明治4年名実ともにふさわしい「後楽園」と呼ばれるようになった。明治17年、池田家より岡山県に譲られ一般に公開されるようになった。本園は貴重な文化遺産として特別名勝の指定を受け、その保存に当たっているが、日本三公園(水戸偕楽園、金沢兼六園、岡山後楽園)の一つとして海外に誇りえる名園である。(案内文より) |