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<青雲寺境内と前田家墓地>
かつてこの地には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繋松(ふなつなぎのまつ)があり、荒川(現隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を望むことができる景勝地として、多くの人びとが訪れた。花見寺の一つ青雲寺(西日暮里三丁目六番)の境内の一部で、金比羅社なども祀られていた。
明治7年(1874)、この一帯が旧加賀藩前田家に売却され、同家墓地となった。前田家12代当主の斉泰から4代にわたって神式の墓地として使われたが、昭和47年(1972)に国許の金沢(石川県)に改葬され、翌48年、その跡地にこの西日暮里公園が開設された。なお、この跡地にあった日暮里舟繋松の碑や滝沢馬琴筆塚の碑などは、現在の青雲寺本堂前に移されている。 |
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○上左 道灌山(「江戸百景」 安藤広重画)
○上右 道灌山虫聴(「大日本名所図絵」 尾形月耕画)
江戸時代から明治時代にかけて、道灌山は虫聴きの名所だった。「江戸名所花暦(文政10年(1827)刊行、文は岡山鳥で、絵は長谷川雪旦)には、次のように書かれています。
虫
「道灌山 日暮より王子への道筋、飛鳥山の続なり。むかし太田道灌出城の跡なりといふ。くさくさの虫ありて、人まつ虫のなきいつれはふりいてゝなく鈴虫に、馬追ひ虫、轡(くつわ)虫のかしましきあり。おのおのその音いろを聞んとて、袂すゝしき秋風の夕暮より、人人ここにあつまれり。また麻布広尾の原、牛嶋もよし。」
虫聴きの名所は、道灌山が最も有名で、とくに松虫が多く、澄んだ音色が聞けたという。このほか真崎(南千住白鬚橋のたもと)、隅田川東岸(牛島神社あたり)、三河島辺(荒木田の原あたり)、王子・飛鳥山辺、麻布広尾の原が虫聴きの名所であった。
「東都歳時記」によれば、旧暦七月の末、夏の終わりから秋の初めにかけて、「虫聴」が盛んだったと記されている。道灌山虫聴の絵は、雪旦、安藤広重、尾形月耕が描いた三種類がある。広重の絵は公園入口脇に模写したものがある。
尾形月耕は、明治期に活躍した画家で、岡倉天心らとともに、美術界発展に尽くした人です。新聞の口絵・挿絵が有名だった。
この絵は、道灌山に月が昇る頃、中腹にむしろを敷き、虫かごに虫を入れて鳴かせ、たくさんの虫に音色を催促している。坂を上がってくる女性が足音を忍ばせている姿ほほえましく感じる。この絵は、明治末頃の作と思われるが、秋の夜長に涼を求めて、老若男女がここに集まり、自然の美しさ、素晴らしさを楽しんでいた。 |
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長谷川雪旦は、「日暮里惣図」と題し、この地域を七枚の絵に描いている。道灌山から諏方神社、浄光寺、養福寺、本行寺まで、当時の様子がわかる。
道灌船繋ぎの松は、この絵の中で台地上に高くそびえている。安永元年(1772)の秋台風のため一本が折れ、残り一本になってしまったようです。
この松をなつかしんで、「日暮里繋舟松之碑」が道灌山に建てられたが、現在は、青雲寺本堂脇に移されている。建碑の年月はわかっていない。天明5年(1785)に鳥居清長の描いた墨版「画本物見岡」の日暮里青雲寺境内の絵に、この石碑を眺めている人たちの姿がみられることから、石碑は、安永元年から天明5年までの13年間に建てられたことがわかる。
道灌山の船繋松は、ここのシンボルであり、近在の人たちに親しまれ、大切にされていた。
道灌船繋松のことは、「江戸名所図会」(天保7年刊(1836)、齋藤幸雄、幸孝、幸成(月岑)の三代三人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれている。
「青雲寺の境内、崖に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)
或人云く、往昔このふもとは豊島川に続きし入江にて、道灌の砦城ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当てにせしものにて、つなぐといふもあながち繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人の詞にして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当にせしを誤りて、道灌船繋の松と唱ふるとぞ。」 |
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