浜離宮庭園は、潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でした。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけです。浜離宮は、この大名庭園を中心にした南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別されます。
この地は、寛永年間(1624〜1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍からこの地を賜わり、海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家のものとなり、名称も浜御殿と改められました。
以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ有料公開されるようになりました。なお、国の文化財保護法に基づき、昭和23年12月には国の名勝及び史跡に、同27年11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。(都立公園・庭園案内ホ−ムペ−ジより引用)
この地は、もともとアシの生い繁る将軍家鷹狩りの場でしたが、承応年間(1650年代)に甲府宰相松平綱重にお別邸となり庭園として造成され、甲府殿浜屋敷又は海手屋敷と呼ばれました。その後、綱重の子綱豊が六代将軍家宣(いえのぶ)となるに及んで名を浜御殿とし、大いに改修が行われ景観を整えました。園内には茶屋・鴨場等を設けるなどして将軍家の行楽や接待の場としてもちいられ、又江戸城の出城としての役目をもっていました。
明治維新後宮内省所管となり、以後浜離宮と改め、迎賓・謁見の場として大いに利用され、皇室の観桜会もしばしば催されました。昭和20年には東京都に下賜され翌年より一般公開しています。
本園は、広大な池泉に海水を導き、潮の干満によって庭園に変化をもたせた潮入の回遊式築山泉水庭で、不幸にも関東大震災や太平洋戦争により多くの樹木を焼失しましたが、お伝い橋かかる潮入りの池や鴨場等に往事の面影を残しており、江戸時代に発達した大名庭園を代表する貴重な文化財でもあります。(浜離宮入場券より引用) |